行く夏を惜しむ
行く春を近江の人と惜しみけり
と芭蕉は詠んでいる。それかあらぬか「惜春」という言葉はあるが、「惜夏」なんて言葉は聞いたことがない。
「冬去りて春の来るにあらず、」「雪間の草の春」などという季節の移り変わりの微妙な美しさを古来愛でている。今頃の夏と秋の端境にもうつろう季節の美しさが感得できるのではないだろうか。
「惜夏」なんて言葉はないかもしれないが、この夏の暑さをくぐりぬけてようやく暑さもやわらいできたこの時期、行く夏を惜しんでみようかと思う。
まずは、あえの風、「早稲の香や わけいる右は有磯海」と「奥の細道」にある有磯海から吹いてくる風が頬に感じられると、あ~秋になったんだね~と思う。
つんざくような油セミの鳴き声はいつか遠のき、夕方になると、蜩のなき声、今日のような25℃にしかあがらないと、その蜩の鳴き声も聞かれない。庭は静かに沈黙して、静といいたいところであるが、夏雨不足で水撒きもおいつかず、椿の葉は茶色く変色して、木々も息絶え絶えではあるが、この夏をこえてほっとした雰囲気が漂っているようにも見える。
畑では、夏野菜が最後の賑わいというか、力ふりしぼって最後とばかりにどっさり実をならせている。これで最後だからと採りにきてと知り合いから言われていってみれば、胡瓜などは山ほど、その分味が薄まってきたのかなという感じ。少人数では食べ切れない。トマトも真っ赤に熟れて、どうしても食べ切れない。野菜は徐々にならなくなるのではなく、蝋燭の最後のひらめきみたいなもので、盛大になってそれで力尽きるらしい。
夜は涼しい。クーラーは必要もなく、窓も開けたままでは寝冷えしそう。竹のシーツもしまおう。
そして今日は部屋の掛け物を架け替えた。座敷は朝顔の絵から、秋草の絵に、待合に使っている部屋には、月を連想させる円相に、それには無垢と書いてある。茶室には、頼山陽の「鳥声」という漢詩を。これだけで秋になったんだね~という気がする。
夏の疲れがやはりあるのかも。プールに行って泳げば、午後は昼寝をしたくなる。これも季節の変わり目かも。
先人のような美しい季節の移り変わりはなかなか見つけられない。ただ、夏と言うのはようやく終わるとほっとすると同時に、あの灼熱が押さえ込まれたかとやはり惜別の思いがするというか、どんなに暴れまわっても季節のめぐりにはあがらえないんだという当たり前のことではあるけど、反抗しても無駄ですよとしみじみはするのです。
秋、掛け物をかけかえると部屋の様相は一編。なにか計画をたてたいと思いをふるいおこしている。
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