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虫の音

涼しくなってきた。蜩の鳴き声がする。夜になると庭ではさまざまな虫の鳴き声がする。「ちちよ、ちちよ」と鳴き、あわれであると書かれていたのは、「枕草子」であったかな。

ひぐらしが鳴く音色を、娘がごく小さいときに「おかあさん、セミが鳴いてるね。」「なんといって鳴いてる?」「ちょこちょこへい、ちょこちょこへい、って」この娘はからすが鳴いてるのを「あや、あや」とその時分言っていたもの。字も読めないし、本からや、ほかからの知識ではない、すのまんまの本人が聞いた通りの鳴き声であった。そんなふうに聞こえるんだ、こりゃ詩人の才能あるんじゃなかろうかと親ばかは一瞬思ったものだが、もちろんそんな才能はなく、今ではからすは、かーかーなんて言っている。ちょこちょこへい、ちょこちょこへいには非常に驚き、なるほどと思ったものだから、今では私自身が、ちょこちょこへい、ちょこちょこへいにしか聞こえない。

小さい時には、誰だって詩人らしい才能の片鱗を見せるものだが、成長するとあの輝いていたとおぼしき個性はどこにこそいってしまう。虫の鳴きねなんて、多分だれに聞いてもかわらない、それは多分本に書いてあったとか、いつの間にか耳にはいっていたという標準的な鳴き声になってしまうのだろう。今はたかが虫の鳴きねであるけど、もしかして、勉強をするさせることで個性の尊重なんて言っているけど、実は持ってうまれた豊かな個性というのは、矯められて無個性にしてしまっていることが多いのではなかろうかと思う。

今、風呂にはいって外から聞こえる虫の鳴き声をしみじみ聞いてみようとしても、どぅしてもどこかで聞いていた鳴きねにしか聞こえない。自分なりの音にならないかと思っても知っている音にしか聞こえない。

成長というのはなんだろうと思ってしまう。ちっちゃい時の無垢なもの、それは個性とはいえないしろものであろうけど、豊かな耳を持っていたのは事実である。豊かな耳はいっぱいのものを聞いて、好奇心にみちていた目は、いっぱいのものを見て、多分知っていることは増えただろうけど、きらめいていた耳でもなく目でもなく、どこかで、だれかが作った知識の後追いになってしまっている。こんなのは豊かというのではないだろうな。

蜩が鳴いている、カラスが鳴いている、蛙がないている、それに気もつかないというよりもましかと思いつつ、小さい時の子供の面影をあとおいしている。秋になったな~。

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