水指のこと 5
水指で見立てというものがあります。もともとは雑器として焼かれていて、普段の生活必需品であったものが、茶人の目にとまり、水指として転用されたものです。典型的なものに種壷があります。腰につけて種をまく時にぶらさげていたもの、種壷として珍重されています。実用品ですので、丈夫でしっかり焼き〆てあり自然釉がかかっているものなど、小間の茶席では水指一つ置きのものとして人気あるところです。
野卑ではあるけど作意のない力強さにあふれている焼物に、茶陶として焼かれたもの以上の力がわびという美意識にかなったものです。もちろんもとの作品がありますので、それに似せたものは焼けるはずです。しかし、名もなき陶工が実用品として作ったもので美しさを意識したものではないはずですが、茶人の心がその上にかぶさると茶陶では見出せなかったわびとかさびとかの美意識の具現化したものになる。今それに似せたものを作ってもらっても、もとのものが持っている美には及びません。
これはもっぱら茶人の心入れがそういうふうな美の表現として認定されたものです。作品そのものの力は勿論あるのでしょうが、もっぱら美を見出す茶人の思いの積算かと思われます。汚い古いもとはタン壷ではなかったかなどと冷やかされながら、茶陶の持っていない、野卑な力強さが時代にあらわれて、いまやわびの権化になっている。これは作品そのものではなく、思いの積算であるとすると、現代の陶工の人が力をこめて作っても時代では及ばない、かなわないということになってしまう。
どれだけよいものを作っても、使う人の思いの積算が作品であると言われれば、いかんともしがたい、どうすりゃいいのだという作陶家のかたもいるわけです。
作品そのものではなく、思いの積算、そんな物語が道具だとすると、作る側のひとが何を目指せばいいのかと悩まれるのはもっともだと思います。
お茶の道具にはもちろん誰がみても素晴らしい、いわゆる客観的な評価ができる美しさもあるけど、さらにものが持っている物語があり、またさらに取り合わせということになると、水指として作品としてとても素晴らしかったとしても、どうにも不満は残る、一体どうしたいと作る側の人につめよられそうだけど、それをわがままと言えなくもないけど、使う側の美意識にかなっている、いないというしかない。
つまりはどんなのがいいのだには答えがないと思うのです。
好きという範疇でしか表現できないのだけど、美意識なんて、その人の持っている経験、知識、思い入れ、などなどから、生まれたもの。
見立てにまで広げると道具の幅がさらに広がり、亡羊とするけれど、だからこそいよいよ深みにはまっていく感じがして、さらに掘り下げたいと思うのです。


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