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久しぶりに妹が訪ねた。最近彼女なりの悩みを抱えていて、それに彼女なりの結論を出したので、それがどうなるかわからないけど、一応の報告にきたもの。悩みは他人にはなんとも言えないものであるけど、大変な決断であったろうと思うので、ねぎらいというわけでもないけど、食事の支度をごちゃごちゃして食べていってもらった。お互い食事は一人ということが多く、大したものでなくとも家庭料理を数々並べて、一緒に食べるだけで妹の決断を応援しているつもりと私の気持ちを出してみたもの。

妹と私は確かに姉妹なのだけれど、まったく似てはいず、知らない人がいると唖然とされてしまう。顔形が似ていないのはもちろんだけれど、お金の使い方などもまったく違う。私はお茶が好きだから、どうしても茶道具、しかも古いものに目がいく。妹は消えていくものにお金を使う、贅沢なお金の使い方が好き、趣味がまったく違う。

私は父が出世中の誕生、父はもし戦死したらと女の子なら看護婦にと言って家をでたそうな。戦後マラリアつき、栄養不良で帰国。戦後を生き抜くのに必死、長女は親といっしょに伴走、一生懸命働く、女といえども仕事を持って頑張って走れと無言でいわれていたようなもの。当然私の目指した道はそんな感じ。今でもそうである。仕事につけるということを念頭においての大学選びであった。

妹は親の頑張りでどうにか余裕が生まれてからの誕生、当然長女とは違う意識での子育て、習い物も私にはまずはそろばんからであったのに、妹の場合は踊りだとか、楽器とか、どっちかというと生活に役にたたない、親とすればお嬢さんに仕立てたかったのかも。選んだ大学も都会地の女子大学。卒業すれば習い事一直線。そんな感じの家に嫁いだもの、でもそれは不調に終わり、本人はひどく傷ついた。

親は苦労のない人生を選択させたつもりだったろうけど、やはり頑張る、こつこつ努力する親の子なら、やはりそんな人生の選択のほうが性にあっていたかもしれない。気がつけば、親の気持ちとはうらはらに、どたばた走り回る頑張りの人生、笑ってしまう。

妹は私と違って、若い時には人目をひくほどきれいであった。どうして姉妹と信じられる?というほどの違い。

今になると親の思惑を超えて、よく似た生き方になってきて、趣味はまったく違うけど、昔も今も我らは本当に仲がいいかも。
若いときからあまりに違うので、向いている方向が違うので競争相手にはお互いならず、お互いを自分に似合った生き方をしていると認め合ってきた。

この年になると、なんだか生き方が似てきましたねと思うけど、あいもかわらず趣味は違い、たとえば旅行に行こうとするなら、彼女はグリーン車、ホテルは一流をいい、私はそんなところにお金を使おうとは思わず、よっていっしょに行こうということにはならない。

お互い親の子で生き方は似てきたと思うけど、まったく違うのは外見だけでもない。
あいもかわらず仲がよく、お互い好きなことを言い合えて、でも相手の領分には入らず、楽しい間柄におれるのはいいことである。

それにしても彼女の決断、うまくいくといいけど。

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育つということ

8月も今日でおしまい、夏休みも今日でおしまい。孫も明日から元気に幼稚園に戻ることであろう。長い夏休み、子供って毎日があんなに楽しいものか、やることを次々と見つけて、成長していくものかと思ってちょっとまぶしい。

孫5歳、おおかたのサラリーマン家庭といっしょで、父親は忙しく娘は子育てに奮闘している。娘を休ませてやりたい、孫には色々な経験もいいかもとこれまで我が家に一週間ほど預かって子供短期水泳教室に通わせてみたり、あちこちにつれていったり、本人も私たちも多いに楽しんできたもの。一人で他所にお泊りするのに準備もできていたというわけで、この夏休み中にまったく知らない人ばかりのまじって林間教育に4日間行ってきた。荷物は自分の分はリュックに担ぎ、意気揚々とでかけてきた。

あんな小さな子供ばかり集めてどうやって団体行動させたものかと思ったけれど、学生ボランテアのきびきびしたそして訓練されたボランテアで本人は多いに楽しんできたようだ。

信州での林間教育、施設に二泊、テントをはって宿泊一泊、雨が降っての中、みんなで力あわせてテントを張ったとか、夜テントで寝ていたら雨がはいってきて新聞紙などで補強した話、みんなでカレーを作ったはなしなど、本人は楽しくて楽しくてこの次の機会にも是非行きたい、もっとたくさんの日のにと言っているらしい。

帰ってきて食事の支度にも率先して手伝うし、ご飯もたくさん食べるようになったとか、

危ながっての多いなる世話の中で育っている子供には新鮮な刺激で、見知らぬ子供同士の刺激は相当なものがあったようだ。育つということを多いにみせてくれた経験であったようだ。

近くの川にしゅっちゅうざりがに釣りにでかけ、いまやいっぱしのざりがにつり名人、弟4日前に二歳になったばかりだけど、其の子が川に落ち、お父さんが川に飛び込んだ話、洞窟探検に言った話など、親の意向がおおいに反映しているのだろうが、自然体験をまるでさせている、上手に泳ぐようにもなった、ゲームなどには今のところ見向きもしない、あんなに健康的な野生人みたいな育て方はないかもと思うほど。

育つということは実に色々な経験で積みあがってくる、色々な人との交わりの中で。
私の年になってくると、あのすくすくと育っていく有様はなんともまぶしく頼もしい。人との交わりのなかで、あるいは立つ位置の変化の中で。

お茶にこだわって長い月日を過ごしてきた。お茶の中での成長を望むなら、習うという立場で方向を掘り続けてきたものを、今度は教えるという方向から掘ってみたらという人がいる。たしかに教えるということは、相手から習うということ、自分の鏡を見ることだと思う。
これ以上のことを望むなら弟子を育ててみたらrと言われている、自分だけに拘っているのは、私道だけであり俄道におわらないかというわけである。なるほどと思う。でも私の拘りは細くて深い道を究めたかったら、教授という方法はまったく思ってみたこともない。誰か弟子を育ててみたらと言われたことはある、自分の精神世界に他人をいれたくないという思い出あったけれど、今人に言われたことはまったくその通りなのでちょっとぐらついている、もちろん点前手順の話ではない、弟子とは思っていないだろうけど、息子だけが私のお茶の追従してくれる相手ではある、

先生も結局先生の息子さんを点前手順はできないけど、すばらしい茶人に育てられたもの、言葉ではなく実際の体現で、何十年も通い続けた私たち弟子とは違う意味での立派な茶人でなかろうかと思う。茶人というのとは違う美意識を共有する同士というべきか、私もその路線でいけたらと思う、

育つということは子供には様々な経験、人との交わりの中で。この年になって育つということができるかどうか心もとないけど、せめて一人の弟子を育てることで私が育っていければなとささやかな決心をしている。

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装う楽しみ

物を着る、装う楽しみは女性だったら誰でもと言いたいなれど、我が家は着るものをずっと商ってきた。着物は売るための商品であり、商品に手をつける者は商人として大成しない、決して商品に手をつけるなと厳しくいわれていた。嫁ぐ時には、母親は十分に和服も持たせてくれた。母は装うことが好き、センスもなかなかよく、反物を見立て、あの着物にはあの帯、羽織、でかけるにはと装いを十分に楽しんでいた。ところが嫁いだ家は、呉服屋、商品には手をつけるなと言われ、よその人よりも数は持っているけど、装うという楽しみが先にくるのではなく、呉服屋ならばこそとか、わけありの商品で格安、なんてことばかりが先にたち、数だけは揃っているけれど、趣味とか楽しみが先にくるなんてことはなかった。

そんなものと思って、人に薦める、売るなんてことはプロになったけれど、装いは人にお分けするもの、自分がやるものではないということになってしまっていた。

その後、私は婦人服を販売するブテックなどをやり出したのだが、これもまた服は今期の流行をお見せするもの、自分らしさを着ることで表現してお客さまにその気になってもらうためのものであり、気にいっているからと言って、いつまでも流行を無視するわけにもいかず、洋服も数だけは持っているといった仕儀、だけれど、着物にしても洋服にしても、趣味、楽しみからは遠い動機、大切にとか好きとかの思い込みは一切ない。あくまでも消耗品である。

着物なんてもうほとんど呉服の仕事はしまいつけたのだが、こうなると売れ残ったのは着ればなんていわれて数はさらに増えているけど、思い入れのある物なんてのはなく、女の情念のこもったなんていう」話からは遠い。似合う、好きなんていうことは無視しているので、どの着物もいまいち、好きでもなく、似合っているわけでもない。

洋服なんてサイズが問題だし、流行を無視するわけにもいかず、数だけは持っているか、なにしろ思い入れがない。

最近50日ぐらいの間で、姑、ご主人、二人を見送った人がいる。ご主人は6年の闘病、姑は5年の闘病であった。言葉にできぬほどの悲しみ、いらだち、つらさを抱えての日々、愚痴のはけ口として、私が受け止めていた。我が家にいらっしゃるのだから、洋服が好きなのだろうけど、今二人を見送っての感想なのだけれど、彼女曰く
「ここの店に連日来てどれだけ自分が救われたかわからない、もちろん奥さんに愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、色々な知恵を拝借したことももちろんあるけど、洋服を着る、新しく服を着る、この効用の大きさというのは特別なものがあった。洋服というのは、すごく癒してくれる、元気をだしてくれるという働きあるものね~」
装うということの有用性を彼女に教えてもらったものである。

たしかに服を買うとお金がかかるけれど、それを越えて服ってすごく自分を励ます、癒す、元気をもたらす働きがある、お金がかかって、それは違うストレスにならないわけではないけど、そのストレスをこえる楽しみがある、
そんなふうに今回はしみじみ思ったと、見送ったあとでも、服を物色にくるのである。

もちろん大事なお客さまだけれど、私が持っていない、装う楽しみ、装う効用を十分に持っていらっしゃるだけでなく、そんな効用を教えてもらったものである。

男の人にそんな楽しみがあるかどうかはわからないが、女性だったらそんな効用をみんな持っているかもしれない。新しい服、着物を着て、鏡の前にたった人はみんなうっとりした顔つきだもんね。

私は着物にしても洋服にしても、売るプロと自認しているが、プロの持っていない楽しみ、そしてそれこそが着るものの一番大事なことなのだけれど、案外私ってわかっていなかったのねと思うと同時に、そんな楽しみがなかったこともいささか残念に思う。
数だけは余計あり、片付けるのにうんざりしているのだけれど、これって罰当たりかもしれない。

お客様、素人さんからかえって深いことを教えていただいたこととなった。
今から装う楽しみを持つということもできそうもないけど、理解していこうとは思っている。

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それぞれのオリンピック

オリンピック真っ盛り、ただ今は女子マラソンが行われている。大変な練習、大変なプレッシャーと戦いながら頑張る選手の姿は純粋に美しい。オリンピックになるととたんに国を意識するが、卓球などはどこの国と戦っているのかわからないくらい中国選手の数が多い。自分の国にいては大会に出席できず、国籍を変えてでもとあちこちの国から参加をしているみたい。国というアイデンテテはいかがになっているのかな、オリンピックが終わればまた国を変えるのだろうか。スポーツが本当にワールドワイドのなっているいのね。こうなりゃ国と国との戦いではなく、まったく個人の能力の戦いであって、国を背負ってプレッシャーに押しつぶされることがなくてということになるかもしれない。

色々な種目でガンバッテいらっしゃる選手たち、ほかの国の事情はわからないけれど、まずは親子というよりも父子鷹の頑張りから始まっているのが多い。そうでなければ名伯楽という素晴らしいコーチとの擬似父子鷹の関係である。小さい時から濃密な家族関係にあって、双方類まれな素質もあったろうが、共通の目標に向かってガンバッテいらした結果であろう。

オリンピックの成果は選手のみなさん、サポートしてくれた家族のおかげと感謝の言葉を述べていらして、それはまたすがすがしいものであった。

こんな濃密な家族関係を築き上げていたら、子供は目標、生き方を引かれたレールから始まったとしても疑いのない人生を歩んだものであろう。最近わけのわからない事件を引き起こす人が多い、人間とは思えない所業を引き起した人のいいわけ、誰でもよかった、疎外感があり、誰も相手をしてくれなかった、親が自分に構ってくれなかった

親が構ってくれなかった、親を憎むというのが定説みたい。希薄な親子関係を恨む声ばかりである。小さい時から濃密な親子関係がなかったことが、事件を引き起こした最初の最大の原因みたいな報道をみると、スポーツ選手のような濃密な親子関係の中では、こんな事件を引き起こすものはいないのかなと思ってしまう。

オリンピックに出場できるような逸材はそういるものではないだろうが、子供に濃密にかかわることは親としてできるかもしれない。あまりに濃密な親子関係の結果のオリンピックと、希薄な人間関係の結末の事件をみると、小さい時の人間関係って重要なことなんだと改めて思う。

個を尊重しているかに見えるほったらかし、人権無視みたいな父子鷹、それなのになんとゴールに大きな違いがあること!

今更子供はどうにもならないけれど、またそれなりに育ててきたつもりだけど、孫育てに私が直接かかわっているわけではないけど、無関心は止めようと思う。

オリンピック、どうも女子の方が威勢がいい。プレッシャーに強いのは女子。本当は女の方が強いのだとオリンピックは証明しているかも。

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23年。

23年前の本日御巣鷹山に日航機が墜落しました。大変な事故でした。遭難されたかた救難、事故の後始末に尽力されたかたにとっては23年という月日は過去にはならないものと思われます。

その年の8月19日から旧ソビエトに旅行しました。事故からたったの一週間、それでも行くのかと言われながら行ってきました。なぜに行きたかったかというと、主人が仲間とショッピングセンターを立ち上げる話があり、出来上がれば私がそこで何か店を出すという話があり、地権者、県関係、テナント、立ち上げる業者と、今思えば無謀としかいいようがない、若かったのですね。話は大体は目処がついてきて、自分で店を切り盛りすることになれば、どこへも行けなくなる、どこか行きたいところがあれば行って覚悟を決めてきたら、の姑の言葉で、いっそのこと行けそうないところと思いきめ、旧社会主義国のソビエトに決めたのでした。

もちろん単なる旅行者でしたが、日本海を船旅で、それからシベリア鉄道に乗り、広い広い平原を走り、飛行機に乗れば、これが国内便?毎日同じ国内で時差があり、私の考えをはるかに超えた旅、体こわしてずたぼろになって帰ってきたけど、ともあれ世界って広い!、普段の常識なんてほんの小さなまわりの当たり前にすぎないことを実感。小さな世界から大きな違う世界を少しでも見たという感じでした。

当たり前、常識なんてちょっと皮をむけば、まったく違うことになる、多分商売を自分ですれば日々戸惑うだろうけど、それは自分にこだわっているから、こんな見知らぬ世界があることを思えば、多分なにほどのことでもないはずと思えたのでした。

翌年ショッピングセンターは完成、私も小さな店を構えました。店の売り上げに一喜一憂、支払いできるかと青白になったことも多かった、従業員に裏切られて悔し涙を流したこともあった。またやっとの店をかかえながら、次々と病人続出、あまりのストレスで私自身が入院、手術の憂き目も何回もあった。そして店をかかえながら姑、舅も看取ることができた。葉茶目茶の人生模様というべきかも。

気がつけば御巣鷹山に飛行機おちてより23年、遺族のかたの人生もさまざまであろうと思われる。そんな事故にもあわず、おかげさまで平坦なる人生を重ねてきたと思える私にも振り返れば、じつにさまざまなる人生模様である。そのつど降りかかってきた運命にただ悩みながら、泣き泣きでも対応するしかなかった。それで23年である。

我が家は商家であり、そこでの手伝いをしていただけであったのに、どうでも店を運営してきた。主人はショッピングセンターのデベロッパーとして薄氷踏みながらまたあれこれの商売にチャレンジしてきた。てんでにストレス病というべき持病をかかえながら毎日歩んでいる。

23年、会う筈のない事故にあってこと最初の意志とは無縁なる人生を歩んでこられた被害者のかただけでなく、何も起こっていないような順風満帆に見える人生にも深い皺が刻まれている。それぞれに一生懸命生きてきたというのが人生かもしれない。

お盆にもなるし、あらためて亡くなられたかたに合掌である。

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桃の思い出

今の季節果物は一年中で一番種類が多い、夏の果物、スイカ、メロン、桃、など、秋の果物葡萄、梨などももう出ている。さらに外来種の果物も一杯、目移りするしまた食べすぎにもなりそう。

桃といえばある思い出がある。私が大学生の時には先生との距離って今よりももっと近かったと思う。迷惑だったろうにゼミ仲間と先生の家に何度も押しかけて遊びに伺ったものである。その中でも県境の町に住んでいらしたM先生とはみょうに馬があって、就職してからも、そして単独で泊りがけで遊びに伺ったことがあった。この先生は京大で経済学を学び、さらに東大で哲学とくに美学を学ばれた人で博識であったけれど、多少嫌味な先生で苦手とする人が多かった。けれどどうしたことか私とは馬があって、泊りがけで遊びにおいでと言われていってきたもの。昔のこととて、車の免許もなく、鈍行で汽車に乗り、あとは歩き。

奥様と一緒に多いに歓待してもらった。大きな水密が出され、皮をするっとむいたら、上手だね~ほかのも剥いて、などと言われたり、先生相手にえらい古いゲーム盤なども囲み、家にあってはまるで子供と一緒の先生でおかしかったことを思い出す。翌日タクシーを呼び、先生夫婦と私の3人で昔からある温泉を目指した、後年その温泉で猿もみかけたという鄙びた風呂、奥様と一緒に女性風呂に入れば、中は湯気もうもうなれど混浴!若き私は隅のほうで縮こまっていたものです。あとから「あんたの裸を見た」などとからかわれたものですが、なんとものんびりした時代でした。その温泉は子宝に恵まれるという霊験あらたかな風呂として有名でした。息子さん夫婦に子宝を授けていただけるように、神様とて少しでも若い人に拝んでもらったほうが効果ありそうだから、代参して欲しいといわれ、一心に祈ってきました。なんとその効験あらたかなこと、ほどなく孫さんができられたとの報告を受けたものでした。後年その孫さんにお目にかかったものでした。

この先生とは長い付き合いで亡くなられるまでお付き合いをしました。10月19日に我が家での茶事にお招きすることにしていたのですが、その一週間前10月12日に亡くなられたのでした。10月12日は旧暦では「時雨忌」とよばれ、芭蕉の亡くなった日なのです。芭蕉に引かれたのか、そういうことどもを息子さんに教えてあげたりして、その後息子さんともお付き合いがあったもの。

たくさんの恩師といえる先生がいらっしゃるが、恩師にちがいないけれど、なんだか個人的に人間同士の付き合いをしてこれた先生はこの人しかいらっしゃらない。

白桃をみると遠い日の青春、先生との思い出がよみがえる。

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ある葬式で

6年の闘病の末に力尽きたご主人を見送られた人の家の葬式に参列してきた。6年前53歳でリンパ腫を発症、救命と治療のために大量のレントゲン照射、ために脳が萎縮、車椅子、さらに脳の萎縮のために痴呆となってしまわれて以来6年間、本当に病人、介護の彼女とも頑張ったと思う。息子が病気を発症、心配のあまりに、母親彼女の姑は脳梗塞を一年後に発症、二人の病人を抱えての奮闘であった。

ご主人がなくなる55日ぐらい前に、母親、姑は力尽きて亡くなられたもの。一切を抱えての奮闘ぶりは痛々しく、せめて愚痴を聞いてあげる、世俗的な対処の仕方の相談に乗ってあげる、たまには気晴らしに連れ出す、ちょっとしたおかずを届けてあげる、そんなことでの協力ともいえないほどの手助けだけしてあげてきた。

長い入院であるが、お医者さんはたくさんの病人を診ていらっしゃるものであるが、自分の家族の時にも感じたものであるが、いつ其のときが来るかわからないものなんですね。彼女も毎日病院に見舞いに行っていたのだけれど、前日に個室から大部屋に移され、CTでの検査もあったよし、検査が終わり部屋には医者、看護婦さんだれもいず、彼女のみ、みると息が長くなってしなくなったとのこと。彼女だけが最後を看取ったということになる。それは静かな別れであったそう。

そうとは知らず、私その日ももらい物の野菜でおかずを作ったのを裾分けしようとタッパーにいれて持っていた。来ないなと思って夜に買い物にでもでませんか、と言えば、ご主人なくなったとのこと。でも折角だからととりにきた。そして何もしてあげられなかった、と泣くのである。
長い闘病の末、彼女は病院には毎日行ってはいたが、それは一時間ぐらいのもの、其の間に彼女だけに無言ではあったろうけど、感謝とさようならの挨拶をされたに違いないと思うし、そういって彼女を慰める。お医者さんでもなく看護婦さんでもなく、あなたにだけの挨拶、それはご主人の深い愛だったに違いないと思う。

いつ其のときがくるのかお医者さんでもわからないのである。偶然であるかもしれないが、彼女だけが立ち会えたことによかったねと言うしかない。彼女55歳、実家にはもう両親はなく、嫁いだ家で見送るべき舅、姑、主人、女の務めをすべて果たしたことになる。55歳でやるべきことをすべて終え、以後何を頑張れば・・・と泣くけれど、今はたしかにそう、でも同級生が年をとって精も根も尽き果てて家族を看取る苦しさを訴えるときには、若くて力があり、本当にできるかぎりの看病をしてあげたことをきっと誇りに思う日がくるに違いないと言う。

とりあえず休むようにと思う。2ヶ月にもみたず、姑を見送り主人を見送る、こんなひどい人生もあるのです。しかも6年、5年の意識もままならない病人であった。むなしさをかみ締めていたのだと思っていたけれど、

病気になり彼女は勤めもやめ看取ることに専念してきた。そんな月日の積み重ねで、初めて夫婦になれたような気がするとも言う。夫婦のありようなんかは其の夫婦の組み合わせ次第、病人と介護人、それで夫婦になれたというのならそんな夫婦の組み合わせかもしれない。

そんな組み合わせの果てに、彼女だけにさようならをしていったのだろうと思う。

あれもこれも幻、錯覚だといえばそうかもしれない。でも深く納得しているのである。彼女とそしてそれを応援していた私にとっては。夫婦のありようも問われた感じがした今回の葬式である。

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