秋も深まると

秋、芸術・文化の秋なんてことで、あちこちの美術館秋季特別展が満載、それを見て歩くのも楽しい。読書の秋なんてのも大好きだったけれど、急に目がめっきり悪くなって今年中に手術の運びとなった。本を読むのは難儀になってしまった。軽い本ばかり読んでいて、たまに重い本を読んだりすると、さっぱり中味が頭に入らず、新しい知識が増えるのは望み薄。

こうなりゃ深まる秋を一番感じるのは食欲といこう。少し秋が深まってきたので、今日はゆずを買いゆず味噌を作ってみた。味噌は好きで色々作ってそのままに、また何かの和え物にも使うことが多い。夏の間人気あったのはなんば味噌、甘辛い味は食欲を刺激してくれるのにぴったりだったけれど、秋が深まるとどうも辛い味はなんだか時期はずれみたいになってしまった。冬の到来、ゆず味噌を作り、サトイモの田楽なんかつけてはふはふ食べればおいしいかも。

さらに今冬初めての酢和えを作る、大根とニンジンをよく塩もみ、油揚げを煮て、それで酢和え、ゆずをこまかく刻んで混ぜ合わせる。そして冬となればおでん、さらに本日はめじまぐろの刺身。

なんだかいかにもの冬の到来を感じさせる献立である。冬の到来は鍋物の出番を思わせるけれど、鍋物は一人では少しもおいしくない。我が家大分まえは舅、姑、子供二人、我ら夫婦とそれなりの人数が揃っていたときは、鍋物はまことに重宝するだけでなく、いかにも食卓を囲んでの家族の食事風景として、湯気を囲んでの楽しい風景であった。

今や舅姑は他界して娘は嫁ぎ、息子は県外での生活。主人は仕事の関係で家で食事をすることはあまりない。大抵の夜の食事は一人である。食事の支度は簡単であるけれど、味気ないものである。ただこういう生活はいずれ誰にでもどこにでも起きることであって馴れるしかないかも。

冬の到来、張り切っておでんを作れば、明日よりは頑張ってたべなきゃならないかも。最近は作ったものを少しずつ友達に裾分けすることもある。

季節の到来を感じさせる食事は、どっちかというと何人も揃って食べるということが前提になっている。ひとりの食事のレシピなんて私にはなかった。あまりに気のぬけた食事は体に悪いだろうし、またあまりに味気ないから、それなりに食事の支度はする。夜用の食事とか朝用の食事とかの区別はあまりしなくなった。今朝なんかばい貝を煮たもんね。冬の貝でおいしかった。

昔からの常識なんかでこれは夜に食べるもの、朝にらに食べるもの、とぬぐいがたく思っていたけど、朝の食事だけは夫婦で一緒に食べるもの、こうなりゃ朝用、夜用なんていってられない。

酢和えなんてのは昔からの料理、主人は好きだから、そして日持ちするから朝にあるいはちょっとビール飲んだりする相手にはいいかも。季節の到来は文化でもなければスポーツでもなく、冬物食事の献立から知るなんていささか気恥ずかしいけど、現実はこんなもの。

刺身、冬になってさまざまあるけれど、一人で食べるというだけでなく、どうも年のせい?さらに今の刺身たいしておいしくない?あまりに食べたいとも思わなくなってしまった。

健やかな食欲に支えられておいしくいただいて食事、今ではすっかりなれてしまったのだけれど、一人っきりの食事、料理が上手でないこともあろうけどおいしいとも思えない。年をとるとみんなそうなるんだよねと思いつつ、冬の到来を思わせる食事を作って小さい季節の移ろいを感じている。

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電話代が下がってきた理由

私今となれば自慢なのですが携帯電話持っていません。携帯電話みんなさかんに持ち始めた頃、持ちそびれたというか、なんでもかんでも私の方に話を持ってきて、伝えたからもう私の責任は終わったのねというような周りの人の反応に業を煮やし、自分が受けた話の責任は自分でとるべきと携帯は断固拒否したのでした。よそからの話って、受けたものがきちんと判断して返事すればあとから大事にならないことが多いのに、ただたんに話を受けただけだと、相手は良いほうに良いほうにと解釈してしまうことが多い。ですので話を聞いてあとから相手の気持ちに添えない状況ですと、相手が非常に不満に思うことが多い。話を聞いて、これは相手の望むことには答えられないということは十分にわかっているにも拘らず、責任逃れというか、とりあえずは私にまわせばよい、これではならじと、携帯は拒否。
自分で判断して返事せよ、それを私に伝えてくれればよい、それで修正しなきゃならないときは当然あとから話をつけるからと。
従業員はようやく自分で話をつけることができるようになりました。

さて其の跡、無くても別にになってしまったのでした。

今やものすごい機能がさまざまついていて、なくてはならぬものになってしまっています。様々な機能、うまく利用している人は多いと思う。

携帯を持たなかった理由は上記の通りですが、それにつけても携帯の便利さのかわりに失うものが大きいような気がしてためらっているという事情もあります。

携帯やメールでの連絡は非常に便利ですが、PCのメールにしてもこれは勿論手紙ではないわけで、息子に言わせると、相手にメールを出しても返事は期待するべきではないと申します。私の年ぐらいですと相手からの働きかけには、どうあれ早く返事するべきだという思いにとらわれていて、返事がないのは無礼まではいかないけど、釈然としないわけです。さらにそれが手紙の場面にまで侵食して、手紙を出しても返事もかえってこない、勝手に出した手紙かもしれないけど、どうも釈然としないわけです。常識がぐらつくわけですね。

待ち合わせなんかにはさらに便利という話、たしかにそうでありましょう、でも会えるかな、時間はいいよね、場所はここだったよねのあのどきどきのときめき感はないと思う。一度約束したことは必ずや守るべき、あの律儀感もなんだか薄らいでいって、それが原因とはいえなけど、守るべき約束や倫理観なんて携帯一本でかんたんに替えられるような気持ちになって、拘りたいものが非常に軽くなっていきそうでちょっとねと思っている。

どうせと年をとればGPS機能付きの携帯を持ったほうが迷惑かからないということにはなるだろう。でもGPSの携帯子供に持たせて我が子を手にかけてしまった母親もいたよね、携帯ではなく、互いの信頼感を結ぶことができなかったためであったろう、携帯は道具でしかないのに。

主人携帯の電話料金安くなってきたという。理由はなんとか割りではなく、さまざまな会の役員をみんなおりてしまったことで通信費は安くなってしまったもの。会の世話なんて順番に引き受けるべきボランテア、お願いしますの無責任な言葉で自分はいつまでも必要とされているなんていう勘違いはすまい、どうあっても頑張らなきゃならないのは仕事、ボランテアなんてどうでもしなきゃならないけど、連綿と続けるべきではない。そんなわけで一気におりてしまった、あんまり続けたくないというよりももう結構ですと言われたかな。団体のお世話っていっつも大体似たひとばかりでまわしていることが田舎では多い。止めるのは無責任とかいいながら、ただたんにそこに座っているのが心地いいだけで、本人は好きなだけということも多い。人はもう害ですと言っていることもあったりするわけ。

さらに孫にしょっちゅう電話していたら、もう相手にしてもらえなくなったもの。毎回何して遊んだ、何を食べたでは孫もいい加減にしたかったろう、電話したいばかりに何やかや小包を作っては送っていても、ありがとう、それ以外には言う言葉もないだろう。

さて携帯の電話の相手はまったくの個人的な生活の中では、通信費が安くなるほどの用事しかないみたい。もちろん仕事はまだいくつかの会社をやっていて、仕事の中味が全然違うので、仕事上の話は勿論あるのだろうけど、大抵は携帯なんかでは済む話ではなく、会ってからの話になるわけでそうなると携帯って必要でした?になってくる。

私は仕事と個人的な生活はわけて考えたい、仕事の上での話はそこに話してもらえば必ず責任持っての話はできるようにはしている。個人的な時間は自由に楽しみたい。人の個人的な生活の中にお邪魔するのもあんまりいただけないと考えている。

さていつまでこの強情は持つだろうか?

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法隆寺展

石川県立美術館が半年ほどかけてリニューアル、美しくなったところでの「法隆寺の名宝と聖徳太子の文化財展」が開かれている。遠いところを旅してきたわけだから大物というわけにはいかない。目玉は「玉虫厨子」である。何度か法隆寺にはでかけていて、そのつど玉虫を見たいと思っているけど、なにせ目が悪い、あそこにあるのかもで終わってしまう。出かけた日は体育の日、たくさんの人出である、子供連れの人も多い、まったく面白くはなかろうと思う。古文書はまったく読めず、法隆寺の地券安堵のものとか、所領、財産目録など、法隆寺の研究資料とすれば一級だろうし、お経は大般若経、法隆寺一切経、など。星曼荼羅なんてのも面白かったし、美しい孔雀明王の絵もみられて私とすれば満足。

子供なんかまったく面白くはなかろうと思うが、ルーブル美術館の学芸員のかたの言葉を思い出す。「子供がわかろうがわかるまいが、わが国の文化という本物に触れさせて、それを感じさせる。それをずっと続けていれば、自分の国の文化を誇りに思う日がくるのです」なるほどね、ただふれていることが大事なのね、でも今度の展示品はあまりに渋かった。

仏像はそう大きくないものが多かったけど、私も知識あるわけではない。じっと見ていると時代で随分仏像が違うなと感じる。室町時代くらいまでくると、整っているように見えながらなんだか間延びしたふうに見える。さらに太子の絵図さまざまで、太子の小さいときの像さまざまであるが、時代が若くなってくると、そして田舎にくればくるほど、仏像が田舎くさいというかのっぺりした姿になっていると感じた。私もわかるというほどではないので、こうなりゃ自分の好きな位置、好きな立場で見ることである。一級の資料かもしれないけど、そんなのはわからないから。

法隆寺といえば、かって娘の息災を祈って納経したことがある。フエノロサが白布をとりのぞいたという救世観音のおさめどころの勧進でなかったかしら、そのための納経であった。そのおさめどころが建立されて落慶法要が行われ、その法要の招待状をいただいたことがある。喜び勇んで出かけたが、昔の絵巻物そのまんま。弁慶の格好した人とか、水干の格好の人とか、上人は輿にかつがれていらしたとか、まったく絵巻物の世界に入り込んだ感じ。たくさんのお坊さんの読経の唱和する声とか、本当に源氏物語の世界にある法華八講の世界もかくやあらんと法要って厳粛であるべきなのだろうけど、ただきれいで美しく、有難かったことばっかりである。

お寺のことって読経、法要って大事なことであろうし、それは実に美しいものであった。今回の展示はそんな華やかさは想像もできない。どうも展示ってかび臭い、クラっぽい、湿っぽいばっかりで、どっちかというと生きて動いている世界ではなく、死んでしまった動かない世界しか見ることができないように思う。

でも法隆寺で百済観音を見たときに、ほっそりした仏像の指先が、私を招いている感じがして涙が止まらなくなったことがある。急に心が咳き上げてきたのである。仏像は昔も今も生きてある人間にそっと語りかけてくるのであるものであることを感じたものである。語られるには何かを自分が其のときに持っていたのかもしれない。仏像はいつだっていき続けているいものである、見るものではなく、感じるものであると思った。だけどそれがどうしてか、どんな状態でならばとかはまったくわからない。あんな気持ちをいつまでも持ち続けたいと思うけど、どうしてかわからないので、またあんな気持ちが落ちてくるかどうかはわからない。是非、どうしてもと思っているのだけれど。

遠くまで運ばれてきた今回の宝物、生きてある風に心に働きかけてくるものではなかったけれど、また法隆寺にでかけて、仏にあってこようとは思っている。

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虎の威をかりる

娘の所の下の孫、2歳、おむつもしっかりしていて喋るのも本人は一生懸命なれど何を言っているのか離れているものには聞き取ること不能。意にそまぬことあれば大声で泣き、まわりを威嚇するなれど、娘は泰然自若、いつものことどうにもならないとわかると泣き止むからほっといてという有様、ワーワー泣けば上の子に嘘泣きよ、みて涙でてないでしょうと、おろおろするじいさんばあさんに言いつけられて、わがままは通るということもない。

この孫、お姉ちゃんの友達が遊びにくる、大好きな面倒見のいいおねえちゃんがいるからか、怖いものなし、なんでもできると勘違い。お姉ちゃんが絵本を読んでいれば、大声でわけのわからない言葉で本を読んでいる。おねえちゃんのやることは全部真似、なんでもできると思っているので、怖いものなし、飛び降りたりは平気危なくてしようがない。

こういうの虎の威を借りている状態だろうと思う。こどもの自分の実力がまるいでわかっていなくて、そこにいるものとおんなじことができるとの勘違いは、まことにほほえましく笑えるだけである。怪我しないように見てはいなきゃならないけど、自分で失敗を重ねながら少しは痛いめにあいながら自分のほどを少しずつわかっていくに違いない。そしてそこから工夫を覚えていき、実力を少しずつ蓄えていくに違いないと、大変たのしくみていられる。

子供の自分というものがまったくわからず、なんでもできる気になっているのなんかおかしいだけど、大人になって自分のほどをわかっていないのは情けない。というよりも自分のほどをわかっているからか、自分のことでなくて、まわりでのことで自分をカモフラジューしているのぐらいはまだしもそれを自分の実力と勘違いしているのはいただけない。

そんな人にはなりたくないなと思いつつ、自分の実力?そんなものは少しもないことも明らか。幸いなるかな、我が亭主にもこっちが勘違いするような力もなく、また勘違いするような家でもなし。お互い気楽なものでした。

ただ子供の虎の威を借りている風を見ていると、自分を振り返る気持ちになったりするのでした。

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コミュニケーション

下の孫、二歳を迎えたばかり、男の子ということもあるでしょう、一日中何かをぶつぶつ言っているのだけれど、はっきりした言葉になかなかならず、まわりも言葉を教えたくてうずうずしているのだけれど、なかなかうまくコミュニケーションがとれない。最近電話に出たがり、電話の向こうでは一生懸命なにかを言っているのだけれど、言葉のやりとりにはなかなかならない。でも電話の相手が私、ばあさんと話ししているのは一番ご機嫌がよく、電話が一番長いのだという。長く話しをするこつは、ひたすら私が「ほうちゃん、上手に言えるね~。よかったね~。楽しいね~」とひたすら本人を受け止め、ほめまくるのが、はっきり何かはわからないけど、本人はとても嬉しくいつまでも話、あれで話なのか?を続けるのです。「バイバイ」なのか「バーバ」なのかわからないけど、とにかく理屈ではなく、褒められている、受け止められているというのが声のイントネーション、調子でわかるのでしょう、とても嬉しいらしい。

コミュニケーションというのは、言葉のやりとりに負うとことが大きいけれど、言葉の意味がわからなくても声質、イントネーション、言葉の調子を通してできるというか、気持ちだけは交換できそうである。わずか二歳であるけど、自分が褒められているとか、聞いてもらっている、受け止めてもらっているというのはすごくよくわかるらしい。もっともこっちは大変である。言う言葉がなく、ごちゃごちゃ言っていることの意味を推察して、それにさかんに賛同してやらなきゃならないので電話終わったあかつきにゃぐったり。でも孫が喜んでいるとあればなんとしても頑張りましょうである。上の孫はもうじき6歳、いっぱしのものである。主人孫の声聞きたくて、さかんに電話する、喜ぶと思ってなにやかやしょっちゅう送っている。すると孫から「ありがとう」の電話あり、またしても声聞きたくて、娘に孫を電話口にだすよう督促すると「またかよ」などの声が聞こえながら、電話口にでると愛想がよくなって「おじいちゃんありがとう、今度は」の話。もういっぱしの大人の対応である。

子供の言語獲得能力と、大人への対応のしかたの学ぶことのすばやさには目を見張るものがある。

ただどんな小さい子でも、言葉の中味までいかなくても、言語の中を理解して感情を表現するのはとっても上手である。騙すなんてことはすぐ見透かされるに違いない。子供には正直であるべきであると思う。言葉の後ろを読むなんてことなんて知らないのだから。ただコミュニケーションて案外簡単なのだが、それは感情でのやり取りが主、本当に正直であるだけである。かえって疲れそうか、

どんなに言葉が通じなくても、受け入れてくれる、承認してくれることって嬉しいのですね。子供をみていると素でいることって、案外簡単なのに、またすっかり忘れていることなどを気がつくのである。

小さい子供がいるからまた気がつく世界がある。
明日また電話してみようかな。

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プレゼント

さりげなくテーブルの上においてあるもの、針とおしであった。23年前に眼病わずらいそのための入院5回、以後目医者にかからぬ年はない。そのつど治しているのだが、いずれも対症療法。23年もたってこれだから病気とすればおとなしいと医者はいうけど、少しずつ目の力が弱まってきたのは仕方ないかも。でも趣味というよりも習慣みたいになっている読書はやめられない、さすがに疲れるので最近ではもっぱら軽いものにばかり、頭もそれにつれて軽くなってきた感がある。秋の空、澄み渡って真っ青なんてこともあるだろうけど、私は晴れた空といえども、曇りガラスをこえたような空しか見たことがない、何十年もそうだからこんなものであるけど、硝子体混濁のあとはもうとれようもない。いっつもゴミがうかんでいる、そしてそれが降っている。さらに年とともに老化という難物も。日常の生活は難なくこなしているし、まわりの人誰も気づいてはいないけど故障した目も身の内である。

針仕事はもっぱら外注ですますのだけれど、少し針仕事をしなきゃならないことはしょっちゅうである。ボタンがとれた、襦袢の半襟を付け替えたい、綻びた、大事ではないけど針仕事である。いっつも針を通すのは一苦労である。針の太さを大きくすれば、針は通りやすいけれど縫いにくい。主人はもともとは近眼であった。老眼になればめがねいらなくなる人もいる。両目とも手術した人ではあるけど、近くは私よりもまだましかもと、針とおしを頼むことがある。向こうも心頭滅却したような真剣な顔でようやく成功するといった有様。

そこで針通しを買ってきてくれたのであろう。プレゼントが針通しかいってなもんだけど、過ごしてきた年月の深さを思うのです。若いときは似合いもしないのに、宝石なんて言ったこともあり、ちっこいオパールのペンダントを買ってくれたこともあったけど、そんなちっこいのは気にいらず、以後取引先で宝石取り扱っていたこともあり、似合いもしない、いりもしないのに、宝石にのめりこんでいたこともあった。今夢のあとの指輪、サイズもあわず、箱の中で眠っている。今となれば、針とおし、なによりのプレゼントであります。なんだかしみじみとしてしまう。

目は大事と十分に承知しているけれど、使わないから大丈夫なんてのじゃないから、今までどおり普通に扱うしかない。幸い私のまわりには、まだ手伝ってくれる人もいるのでどうにかなるのだけれど、全部一人なんてことになると大変かも。

こうしながらも目はじゃかじゃかする。でもパソコンを通じてほんのちょっぴりの世界と繋がっている感じは悪くなく、もちろん続けていくつもり。

針とおしのプレゼントが一番になるなんて、若い時には思いもよらなかった。欲しい物を言えといわれれば、思いつくものがないわけではいけど、どうあってでもいうひりつくような感覚のものではない。あれば楽しいかなというほどの要求でしかない。

知足安分という世界なんていうおこがましさはないけど、どっちでもよし、といういい加減の世界であることは事実。
其の中で針とおしなんてじつにささやかでどうでもみたいに見えるものの中に、我ら夫婦の歴史が詰まってきたなと柄にもなくしみじみとしてしまうのです。

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珍しい客

香港に住んでいる叔父が来た。日本での住まいは横浜であるけど、出身はこっち。おじいちゃん、つまりは叔父の父がなくなって18年ぶりでの来富である。10年前に香港に尋ねたことのある私は10年ぶりだけれど、母、叔父の姉にあたるは18年ぶり。感激一入で、これで今生の別れかと「元気で」という言葉も涙声である。

香港に住んで16年とのこと。香港に一人で乗り込み、現地で会社を立ち上げ、今では日本の親会社には海外に6っつ会社があるそうだが、その会社の稼ぎ頭に育てあげ、初めは日本の会社は出資20%であったそうだが、儲かる会社になって100%出資しているそうな。そこの社長をしている。定年は過ぎたのだけれど、嘱託という身分なれど、給料は現役と一緒だけ払ってもらっているよし、意気軒昂である。叔父なのだけれど、私よりも二歳だけ上、現役で働くのが好き、じつに若々しい。香港に単身赴任して16年、仕事は大変だろうけど、単身のまま充実している。

16年の単身での仕事、まったく苦にはなっていないようである。根をあげるどころか、ますます業績をあげよう、真面目に仕事すればしただけのことありと、本当に若々しい。弟は叔父よりも5歳下だけれど、昨年大病したこともあるだろうけど、もっと老けてみえる。思うに弟の勤めていた会社は業種が不景気ということもあり、リストラを何度もやった。弟はその波をかぶることなく、定年まで勤め上げたのだけれど、仲間がやめさせられていった。ボーナスは減額、配置転換などさまざまあったのではなかろうか、詳しいことはわからないけれど、とにかく定年を待ち遠しがっていたもの。その会社に勤めていた人は、本当に元気が無い人が多かった。仕事の量、責任ということになると、叔父のほうが激務ではなかろうか。しかも言葉は基本的に英語、広東語のこともあるらしい。仕事は激務だったら、ストレスで過労なんていわれるけれど、充実感というものとの合算で考えれば、激務というのはそれそのものがストレスではないらしい。中国、台湾、東南アジアをまたにかけた運送の仕事である。陸送もあり海送もある。商習慣の違い、国振りの違い、運送上での事故、トラブル、保険を何重にもかけての仕事、じつに大変だろうけど、売り上げあげていく、新しいビジネスの成功と、とても日本では味わえないスリルと充実感らしい。

仕事人間の叔父は16年の間に私用で帰国したのは今度で二回目だとのこと。一度目は娘の結婚式であったとのこと。これじゃ18年ぶりの来富になるわ。まったく仕事の鬼か。でも充実感でいっぱいらしい。そんな仕事の鬼みたいな話、年もあるだろうけど、自己営業の家に育った我らは深く納得するのです。そんな生き方って男らしいなんて、いまでは絶対はやらないような考え方、ひさびさに同感できて多いに盛り上がったのでした。

叔父の話でなるほどと思ったこと
日本はアジア各国の人からみると高い賃金をはらってもらっている。さらに年金あり、健康保険もある。いってみるなら将来のことはアジアの人々からみると非常に恵まれている。にもかかわらず、将来を悲観して自衛と称して貯金にばかり励んでお金を使わない。だからお金が回らなくて不景気になってしまう。香港、中国の人は、不動産とか消費を非常にする、そんなに貯金ばかりとは考えない。子供が親の年をとったのを見るのは当たり前という感覚があり、自分の老後をそう悲観していない。ようやく就職した其の月から、親に仕送りする人は珍しくないとのこと。親を大事にするあの感覚もっと日本人は見習ってもいいのではないのか。楽しくお金を使うとおいうことで経済は活性化する。悲観的なことばかり煽るマスコミはいかがなものか、そしてそれが当たり前ととる国民性っていかがなものか、

ないもかも公に要求すれば税金は高くなるばかりである。親孝行って時代おくれと考えるのではなく、それができないなら、同世代同士のボランテアをもっと推し進める、人助けってたのしいものであろうに。

こんな話は本当に納得できるものであった。
香港に単身で乗り込み、ホテル住まいから始まって会社を立ち上げ、今日まできたのはひとえに人のつながり、助けがあったればこそ。現役しりぞいたらボランテアを組織して生きたい、
こんな考え方をグローバルというのじゃないのかな。若々しく仕事に没頭、色々な国の人との付き合い、商売相手、こんな話聞いていると、私も考え方がすごく縮こまっているなと感じる。

叔父と一緒に随分久しぶりに祖父母の墓参りもできた。母、叔母、母の実家の叔父にもみんな会えて、一族と言う感じがして一気に昔の思い出の話にもどり楽しかった。いとこたちもみな一線で活躍している様子も話しきけたし、久しぶりに楽しい一日であった。

18年ぶりで来富のことを考えると、この次は縁起でもないけど誰かの葬儀にならなきゃいいけどとも思うのである。母の涙はわかる気がする。

叔父さん、香港でさらに活躍して下さい。お元気で。

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季節は変わる

冬過ぎて春のきたるにあらずと雪間の草の春、などと繊細な季節の移り変わりを古人はよく読んでいる。夏から秋の移り変わりは、日中と夜との季節の違いということに一番でてくる。日中はとうとう日本も亜熱帯地方になったか、温暖化の影響かと騒ぐほどの残暑がいつまでも続き、あげくに今年は雨という言葉も気恥ずかしいほどのスコールかといった雨が多かった。

夜の闇に包まれると、虫のすだく声のすさまじいこと。「枕草子」に「ちちよ、ちちよとあわれに鳴く」という虫の話も出てくるし、「堤中納言物語」には「虫めずる姫君」なんていう話も出てくる。虫は情緒的にとらえられているし、その本から見えるのは、音楽的にもすばらしい、やさしげな虫たちである。時代のせいなのか、我が家の庭が悪いのか、情緒纏綿といった虫ではなく、一斉になく虫の合唱はむしろ命のかぎりと言った感じで、必死さが漂い、またたけだけしいと感じる。日中の夏の名残はふきとんで秋なんだね~と実感する。
さらに「月々に月みる月おおけれど、今日見る月はこの月の月」と一年中月はかわらず出ているけど、秋の月は特別なもの。もの思うには月と秋の夜は特別である。

秋は日中と夜の差が大きい。夜になって「あ~季節は移り変ってるのね」と実感する。日中では残暑が残っていたりして、うかうかと季節の移り変わりには鈍感であるけど、夜の闇に季節の移り変わりを如実に感じることとなる。

昔の人は、自然の移り変わりには今の人よりももっと敏感であった、それは文芸的な意味の中ばかりではなく、ほとんどは自然に合わせて生きていたのだから、農耕民族であるからには当然であった、
とはいえ、やはり自然にまかせてというだけではなく、さまざまな節目という行事を設定することでより季節を実感していたもの。

昨日は彼岸の中日であった。暑さ寒さも彼岸までという自然の移り変わりだけでなく、お彼岸には墓参りをする、さらにおはぎを作って仏壇に供える、そんな行事を通して季節のうつりかわりを感じていたのであろう。我が家でも毎年おはぎを作って仏壇に供えるのは当たり前の行事であった。小豆を煮て、黄な粉、ゴマと三色のおはぎ、毎年作って供えるのは当たり前であったけれど、今年はやってない。帯状疱疹になってまだ鈍痛を抱えている。気だるさがぬけない、気力わかないである。若い時は家族多く、店の人にも、親戚にも裾分けして張り切ったものであるけど、今やひっそりした我が家では気力わかないだけでなく、似つかわしくなくなってしまった感がある。長年やってきた行事であるし、家族もおはぎが大好きだから、帯状疱疹よくなってから作ろうとは思う。なんとなく諦められない行事なのである。忘れた時間、後ろめたい感じかな。それともあの賑わいの過去の時間を懐かしむ気持ちかも。

昔の人もただ季節が移ろうのを見ていても、そんなにわかるものではなく、季節を行事におきかえて楽しむ、あるいは季節の移ろいを行事で知る、という工夫があったものと思われる。

いま伝えられてきた行事は我が家にかぎらず形骸化してきたように思う。生活の仕方、家族の有様が違ってきたので、行事がそのままでは生活にそぐわないということもあるだろう。

四季のめりはりが効いている日本、でも漫然としていれば季節の移ろいはわからないまんま。あれ~秋だわ、冬だわ~にしかならない。そんな漫然さを防ぐ手立てが季節にまつわる行事、楽しかったり、おいしかったり、さまざまな行事は本当に生活に厚みを加えてくれるスパイスのようなもの。
それらの行事は必ずしも現代の生活にはぴったりではないかもしれないけど、大事にしたいと思う。なんといっても季節を愛でる感性のうちの国だものと思う。

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言葉 その中味

言葉は事物を表したり、心を表したりとまったく意識もしないままに使っていることが多い。大人になると言葉の膨らみに気を配り、ぶしつけ、そのまんまが言葉の中味とはいえないことは十分承知している。

さはいえども、お茶にまつわる世界の言葉ほど、内容との乖離があるのではと思うことはそうはないかも。お茶とは無縁に過ごしている人が、お茶に携わっている人を煙たく思ったり、近づきにくいと感じるのは、主として言葉がそのまんまではなさそうだ、どこらに真実があるのかわからないということを感じてしまって、近寄らないでおこう、あるいは胡散臭いと感じてしまうと言われたものである。

実際何気なく言っているのだろうが、何十年もお茶をやっていながらひよこですと謙遜したふうに見えながら、その実は全然そんなこと思っていなくて、とりあえずそう言っておけば問題はなかろうという一種傲慢な思いの表現であることが多い。またそう聞いているほうも、まっすぐひよこなんて全然受けとっていず、ベテランですねなんて思いながら、そういう言い方をするのは当たり前ととっていることが多い。それは大人同士の会話であろうという話になっているけど、それは大人同士の会話ではなく、ただたんに年を重ねている人とか、先生のその社会におけるヒエラルキーをなんとなく追認、それに従っていれば問題はないだろうという暗黙の了解のうちの上滑りした言葉であることが多い。

言葉は実感を伴ってこそ相手に届き、心をうつものである。なにごともむくつけき荒々しい現実をそのまま言葉にするということではないけど、真実をオブラートーに包んだという程度どころか、まったく心にもないことを一つの型として言葉として表現するのはいかがなものであろうか。どうしてお茶の世界では、言葉まで型があるのかと驚き、うんざりするのは私だけではなかろう。

うわすべりの言葉を謙遜と勘違いしている御仁は多いかも。

お茶が好きな人は多いけれど、あの言葉の持つ世界にはついていけない。近寄りたくないという人のなんと多いことか。

お茶は特別な世界とは思わない。自分らしくありたい一つの世界ではあるけど、特別の世界、選良なんていう思いのなんと傲慢で小さな世界であることか。でもきっとそんな現実とはちょっとずれた言葉の世界って、本当は其の人の鎧かもしれないと思うこともある。お茶と切り離してみれば、なかなか味のあるエレガントな人はいますもの。ところがお茶と限定してしまうと厚手の鎧に包まれたなんとも柔和に見えながら、その実は空疎な世界に変貌してしまう人の多いこと。これだからお茶って誤解されるんだわと思う。

子供の時分から稽古を始めても何十年も修練しながら、いつまでもひよこと言わなきゃならない、しかも決して自分では思っていない、そんな世界。さらにヒエラルキーがてんで違うことでの評価、なにもお茶に限らずなのかもしれないけど、言葉と中味を一体化は無理としても、近づける、あるいは実感に近づけることぐらいはできるのじゃないのかな。

空疎な言葉の羅列の世界、こんなの楽しいの?
長年の疑問とそしてそんな世界のまどろこしさとあほらしさにいささかうんざりしているのです。

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納棺夫

今納棺夫、納棺師を話題にした映画が評判らしい。おくりびと、などの優しげな言葉になっているらしい。「納棺夫日記」という青木新門さんの著作がある。著者は作家になりたいとか、あるいは思うにまかせぬ青春の挫折から、一番人の嫌がる仕事に取り組み、その仕事をしながら人の反応を見る、著者の家は名門といわれる家柄で親戚の人の冷たい目、世間の人の奇異に思う目をいつも意識していた。屈折した日々であった。世間のあざ笑いにも似た視線の中で、でも死者だけは、いっつも一緒であったそう。著者の講演会も聞いたことがある。納棺夫には様々な死者の納棺を頼まれる。誰にも看取られず、ひっそりと亡くなり、使者からは猛烈な蛆がわき、大変な状態の死者もいれば、肉親が大勢集まってはいるけれど、死者の枕元で財産の分け方をめぐって喧々諤々の言い合いになっている家もあったとのこと。
あるとき、死者の横から青い透き通った虫が一羽すっとでていった。其のときに思ったそう。醜いのは残っている人間ではないのか、死者は誰だって、最後になれば死を受容してそれは荘厳な立派な顔になっているそう。年齢も性別も生きてあったときの地位もなんの関係もなく、死者はいつだって荘厳で死を受け入れたおだやかで立派な人になっていると感じた。
そんなような趣旨の話で、講演会でもそんな話でした。

死という話など非常に共感できて、この著作の本を先生に貸してあげました。先生は阿弥陀経に深く帰依している人ですので、話には非常に共感されて、その本を次男さんに読んでみたらと送られたとのこと、この時点で私が貸してあげた本であることはすっかり忘れてしまっていたらしい。さて次男さんも共感されて、さらにその本を北海道の知り合い、そのかたは次男さんが北海道というところを非常に気にいり、その北海道で仕事をしたいと思うほどに心をいれていたのだけれど、母親の強い反対にあいやむなくやめて教授の進められたまま、都会で仕事を、現在は水戸で開院なさっていらっしゃるのだけれど、北海道での母と思うほどに気持ちの通じ合った人であったらしい、
その人に本は渡っていった。

くだんの北海道の人、本に非常に感銘なさり、その本を薦めるおかあさんに是非会いたいと北海道に来てくださいと話になり、先生は次男さんと北海道にいってらした。

一冊の本が縁で北海道の見知らぬ人とご縁を結び、話がまたはずんだとのこと。

其の本は北海道にあるのだろうか。

毎年其の方から年末に大きなかずのこと百合根が送られてくる。正月の初釜には今年もきましたと八寸には必ず数の子と百合根である。もちろんその縁のいきさつの本が私のものであったのを、先生自身は忘れてしまっていらっしゃる。教場の人は誰も知らない。

不思議な縁だね~と思う。誰も知らないけれど、そのご縁での数の子と百合根を毎年いただきながら、なんだか複雑ながら、おいしくいただいているからいらざることは言うまいと思っている。

大分たつ話なのでほとんど忘れていたのだけれど、いままた納棺夫の話の映画があるということで思い出した。

死者というのは醜くはない。むしろ荘厳で美しい。
さて映画ではどうなっているのだろうか。

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県民性

全国統一テストが行われ前年度と変わらぬ県による成績の差があったようだ。我が富山県は秋田、福井、富山とならぶ成績がまあ優秀という点をとったようで、教育関係者は安堵なさったことであろう。全国統一テストは昔にも実施されていたが、その時分からテストの成績はよかったのだと思う。

安堵もさることながら、富山県では公ということがとても強くて、私立なんて幅を利かせているわけではない。昔から大学は国立志向であり、私立は個性ある教育で評判といっても、県内ではそう人気はない。どっちかというと寄らば大樹の思考が幅をきかせているだけであく、勤勉、まじめな県民性があるから、そこそこの成績にはなる、またもちろん金持ちもそうでない人もいるけど、生活困窮世帯への公の支援は全国で一番低いと聞いている。勤勉さもさることながら、それなりに働くところもあり、そうであるから支援を受けるということを恥と考える人も多く、つまりは気が小さいので頑張るのだと思う。

真面目、気が小さく、地味な県民性である。長所は自立志向が強く、働くことを厭うということがない。気楽に遊ぶ人を、みゃ~らくもん、(身が楽な者)と戒める言葉もある。こつこつが性にあっているのであろう。

もちろんそうであるから。みゃ~らくもんから生まれる独創的な思考には鈍いかも。底抜けの明るさというのもない。芸術方面もいささか苦手かも。実業の分野には強いかも。

たかが子供の成績であるけど、県民性が透けてみえる。沖縄は例年ぶっちぎりの最下位のようであるけど、なんくるないさ、というらしい明るさと楽天的な考え方はテストでは欠点なんだろうけど、芸能方面にはたくさん活躍しているらしい。どうも長所と短所はまったく同じことを表からと裏からと見ているだけのこと。

富山県人は富山県人であるし、沖縄県人は沖縄県人である。交じり合うことはないかも。

子供の成績がよかったのは喜ばしい、しかも我が県内では塾に通っている人もそう多くない、学校の先生が熱心である。子供の教育の責任は学校にあるということは県内では自明の理である。塾にとかに頼るものではないことになっている。

テスト成績の結果から、県民性、県内事情が思われてもちろん喜ぶことではあるけど、そうだから欠点もあるんだよね~と思うのである。

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久しぶりに妹が訪ねた。最近彼女なりの悩みを抱えていて、それに彼女なりの結論を出したので、それがどうなるかわからないけど、一応の報告にきたもの。悩みは他人にはなんとも言えないものであるけど、大変な決断であったろうと思うので、ねぎらいというわけでもないけど、食事の支度をごちゃごちゃして食べていってもらった。お互い食事は一人ということが多く、大したものでなくとも家庭料理を数々並べて、一緒に食べるだけで妹の決断を応援しているつもりと私の気持ちを出してみたもの。

妹と私は確かに姉妹なのだけれど、まったく似てはいず、知らない人がいると唖然とされてしまう。顔形が似ていないのはもちろんだけれど、お金の使い方などもまったく違う。私はお茶が好きだから、どうしても茶道具、しかも古いものに目がいく。妹は消えていくものにお金を使う、贅沢なお金の使い方が好き、趣味がまったく違う。

私は父が出世中の誕生、父はもし戦死したらと女の子なら看護婦にと言って家をでたそうな。戦後マラリアつき、栄養不良で帰国。戦後を生き抜くのに必死、長女は親といっしょに伴走、一生懸命働く、女といえども仕事を持って頑張って走れと無言でいわれていたようなもの。当然私の目指した道はそんな感じ。今でもそうである。仕事につけるということを念頭においての大学選びであった。

妹は親の頑張りでどうにか余裕が生まれてからの誕生、当然長女とは違う意識での子育て、習い物も私にはまずはそろばんからであったのに、妹の場合は踊りだとか、楽器とか、どっちかというと生活に役にたたない、親とすればお嬢さんに仕立てたかったのかも。選んだ大学も都会地の女子大学。卒業すれば習い事一直線。そんな感じの家に嫁いだもの、でもそれは不調に終わり、本人はひどく傷ついた。

親は苦労のない人生を選択させたつもりだったろうけど、やはり頑張る、こつこつ努力する親の子なら、やはりそんな人生の選択のほうが性にあっていたかもしれない。気がつけば、親の気持ちとはうらはらに、どたばた走り回る頑張りの人生、笑ってしまう。

妹は私と違って、若い時には人目をひくほどきれいであった。どうして姉妹と信じられる?というほどの違い。

今になると親の思惑を超えて、よく似た生き方になってきて、趣味はまったく違うけど、昔も今も我らは本当に仲がいいかも。
若いときからあまりに違うので、向いている方向が違うので競争相手にはお互いならず、お互いを自分に似合った生き方をしていると認め合ってきた。

この年になると、なんだか生き方が似てきましたねと思うけど、あいもかわらず趣味は違い、たとえば旅行に行こうとするなら、彼女はグリーン車、ホテルは一流をいい、私はそんなところにお金を使おうとは思わず、よっていっしょに行こうということにはならない。

お互い親の子で生き方は似てきたと思うけど、まったく違うのは外見だけでもない。
あいもかわらず仲がよく、お互い好きなことを言い合えて、でも相手の領分には入らず、楽しい間柄におれるのはいいことである。

それにしても彼女の決断、うまくいくといいけど。

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育つということ

8月も今日でおしまい、夏休みも今日でおしまい。孫も明日から元気に幼稚園に戻ることであろう。長い夏休み、子供って毎日があんなに楽しいものか、やることを次々と見つけて、成長していくものかと思ってちょっとまぶしい。

孫5歳、おおかたのサラリーマン家庭といっしょで、父親は忙しく娘は子育てに奮闘している。娘を休ませてやりたい、孫には色々な経験もいいかもとこれまで我が家に一週間ほど預かって子供短期水泳教室に通わせてみたり、あちこちにつれていったり、本人も私たちも多いに楽しんできたもの。一人で他所にお泊りするのに準備もできていたというわけで、この夏休み中にまったく知らない人ばかりのまじって林間教育に4日間行ってきた。荷物は自分の分はリュックに担ぎ、意気揚々とでかけてきた。

あんな小さな子供ばかり集めてどうやって団体行動させたものかと思ったけれど、学生ボランテアのきびきびしたそして訓練されたボランテアで本人は多いに楽しんできたようだ。

信州での林間教育、施設に二泊、テントをはって宿泊一泊、雨が降っての中、みんなで力あわせてテントを張ったとか、夜テントで寝ていたら雨がはいってきて新聞紙などで補強した話、みんなでカレーを作ったはなしなど、本人は楽しくて楽しくてこの次の機会にも是非行きたい、もっとたくさんの日のにと言っているらしい。

帰ってきて食事の支度にも率先して手伝うし、ご飯もたくさん食べるようになったとか、

危ながっての多いなる世話の中で育っている子供には新鮮な刺激で、見知らぬ子供同士の刺激は相当なものがあったようだ。育つということを多いにみせてくれた経験であったようだ。

近くの川にしゅっちゅうざりがに釣りにでかけ、いまやいっぱしのざりがにつり名人、弟4日前に二歳になったばかりだけど、其の子が川に落ち、お父さんが川に飛び込んだ話、洞窟探検に言った話など、親の意向がおおいに反映しているのだろうが、自然体験をまるでさせている、上手に泳ぐようにもなった、ゲームなどには今のところ見向きもしない、あんなに健康的な野生人みたいな育て方はないかもと思うほど。

育つということは実に色々な経験で積みあがってくる、色々な人との交わりの中で。
私の年になってくると、あのすくすくと育っていく有様はなんともまぶしく頼もしい。人との交わりのなかで、あるいは立つ位置の変化の中で。

お茶にこだわって長い月日を過ごしてきた。お茶の中での成長を望むなら、習うという立場で方向を掘り続けてきたものを、今度は教えるという方向から掘ってみたらという人がいる。たしかに教えるということは、相手から習うということ、自分の鏡を見ることだと思う。
これ以上のことを望むなら弟子を育ててみたらrと言われている、自分だけに拘っているのは、私道だけであり俄道におわらないかというわけである。なるほどと思う。でも私の拘りは細くて深い道を究めたかったら、教授という方法はまったく思ってみたこともない。誰か弟子を育ててみたらと言われたことはある、自分の精神世界に他人をいれたくないという思い出あったけれど、今人に言われたことはまったくその通りなのでちょっとぐらついている、もちろん点前手順の話ではない、弟子とは思っていないだろうけど、息子だけが私のお茶の追従してくれる相手ではある、

先生も結局先生の息子さんを点前手順はできないけど、すばらしい茶人に育てられたもの、言葉ではなく実際の体現で、何十年も通い続けた私たち弟子とは違う意味での立派な茶人でなかろうかと思う。茶人というのとは違う美意識を共有する同士というべきか、私もその路線でいけたらと思う、

育つということは子供には様々な経験、人との交わりの中で。この年になって育つということができるかどうか心もとないけど、せめて一人の弟子を育てることで私が育っていければなとささやかな決心をしている。

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装う楽しみ

物を着る、装う楽しみは女性だったら誰でもと言いたいなれど、我が家は着るものをずっと商ってきた。着物は売るための商品であり、商品に手をつける者は商人として大成しない、決して商品に手をつけるなと厳しくいわれていた。嫁ぐ時には、母親は十分に和服も持たせてくれた。母は装うことが好き、センスもなかなかよく、反物を見立て、あの着物にはあの帯、羽織、でかけるにはと装いを十分に楽しんでいた。ところが嫁いだ家は、呉服屋、商品には手をつけるなと言われ、よその人よりも数は持っているけど、装うという楽しみが先にくるのではなく、呉服屋ならばこそとか、わけありの商品で格安、なんてことばかりが先にたち、数だけは揃っているけれど、趣味とか楽しみが先にくるなんてことはなかった。

そんなものと思って、人に薦める、売るなんてことはプロになったけれど、装いは人にお分けするもの、自分がやるものではないということになってしまっていた。

その後、私は婦人服を販売するブテックなどをやり出したのだが、これもまた服は今期の流行をお見せするもの、自分らしさを着ることで表現してお客さまにその気になってもらうためのものであり、気にいっているからと言って、いつまでも流行を無視するわけにもいかず、洋服も数だけは持っているといった仕儀、だけれど、着物にしても洋服にしても、趣味、楽しみからは遠い動機、大切にとか好きとかの思い込みは一切ない。あくまでも消耗品である。

着物なんてもうほとんど呉服の仕事はしまいつけたのだが、こうなると売れ残ったのは着ればなんていわれて数はさらに増えているけど、思い入れのある物なんてのはなく、女の情念のこもったなんていう」話からは遠い。似合う、好きなんていうことは無視しているので、どの着物もいまいち、好きでもなく、似合っているわけでもない。

洋服なんてサイズが問題だし、流行を無視するわけにもいかず、数だけは持っているか、なにしろ思い入れがない。

最近50日ぐらいの間で、姑、ご主人、二人を見送った人がいる。ご主人は6年の闘病、姑は5年の闘病であった。言葉にできぬほどの悲しみ、いらだち、つらさを抱えての日々、愚痴のはけ口として、私が受け止めていた。我が家にいらっしゃるのだから、洋服が好きなのだろうけど、今二人を見送っての感想なのだけれど、彼女曰く
「ここの店に連日来てどれだけ自分が救われたかわからない、もちろん奥さんに愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、色々な知恵を拝借したことももちろんあるけど、洋服を着る、新しく服を着る、この効用の大きさというのは特別なものがあった。洋服というのは、すごく癒してくれる、元気をだしてくれるという働きあるものね~」
装うということの有用性を彼女に教えてもらったものである。

たしかに服を買うとお金がかかるけれど、それを越えて服ってすごく自分を励ます、癒す、元気をもたらす働きがある、お金がかかって、それは違うストレスにならないわけではないけど、そのストレスをこえる楽しみがある、
そんなふうに今回はしみじみ思ったと、見送ったあとでも、服を物色にくるのである。

もちろん大事なお客さまだけれど、私が持っていない、装う楽しみ、装う効用を十分に持っていらっしゃるだけでなく、そんな効用を教えてもらったものである。

男の人にそんな楽しみがあるかどうかはわからないが、女性だったらそんな効用をみんな持っているかもしれない。新しい服、着物を着て、鏡の前にたった人はみんなうっとりした顔つきだもんね。

私は着物にしても洋服にしても、売るプロと自認しているが、プロの持っていない楽しみ、そしてそれこそが着るものの一番大事なことなのだけれど、案外私ってわかっていなかったのねと思うと同時に、そんな楽しみがなかったこともいささか残念に思う。
数だけは余計あり、片付けるのにうんざりしているのだけれど、これって罰当たりかもしれない。

お客様、素人さんからかえって深いことを教えていただいたこととなった。
今から装う楽しみを持つということもできそうもないけど、理解していこうとは思っている。

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それぞれのオリンピック

オリンピック真っ盛り、ただ今は女子マラソンが行われている。大変な練習、大変なプレッシャーと戦いながら頑張る選手の姿は純粋に美しい。オリンピックになるととたんに国を意識するが、卓球などはどこの国と戦っているのかわからないくらい中国選手の数が多い。自分の国にいては大会に出席できず、国籍を変えてでもとあちこちの国から参加をしているみたい。国というアイデンテテはいかがになっているのかな、オリンピックが終わればまた国を変えるのだろうか。スポーツが本当にワールドワイドのなっているいのね。こうなりゃ国と国との戦いではなく、まったく個人の能力の戦いであって、国を背負ってプレッシャーに押しつぶされることがなくてということになるかもしれない。

色々な種目でガンバッテいらっしゃる選手たち、ほかの国の事情はわからないけれど、まずは親子というよりも父子鷹の頑張りから始まっているのが多い。そうでなければ名伯楽という素晴らしいコーチとの擬似父子鷹の関係である。小さい時から濃密な家族関係にあって、双方類まれな素質もあったろうが、共通の目標に向かってガンバッテいらした結果であろう。

オリンピックの成果は選手のみなさん、サポートしてくれた家族のおかげと感謝の言葉を述べていらして、それはまたすがすがしいものであった。

こんな濃密な家族関係を築き上げていたら、子供は目標、生き方を引かれたレールから始まったとしても疑いのない人生を歩んだものであろう。最近わけのわからない事件を引き起こす人が多い、人間とは思えない所業を引き起した人のいいわけ、誰でもよかった、疎外感があり、誰も相手をしてくれなかった、親が自分に構ってくれなかった

親が構ってくれなかった、親を憎むというのが定説みたい。希薄な親子関係を恨む声ばかりである。小さい時から濃密な親子関係がなかったことが、事件を引き起こした最初の最大の原因みたいな報道をみると、スポーツ選手のような濃密な親子関係の中では、こんな事件を引き起こすものはいないのかなと思ってしまう。

オリンピックに出場できるような逸材はそういるものではないだろうが、子供に濃密にかかわることは親としてできるかもしれない。あまりに濃密な親子関係の結果のオリンピックと、希薄な人間関係の結末の事件をみると、小さい時の人間関係って重要なことなんだと改めて思う。

個を尊重しているかに見えるほったらかし、人権無視みたいな父子鷹、それなのになんとゴールに大きな違いがあること!

今更子供はどうにもならないけれど、またそれなりに育ててきたつもりだけど、孫育てに私が直接かかわっているわけではないけど、無関心は止めようと思う。

オリンピック、どうも女子の方が威勢がいい。プレッシャーに強いのは女子。本当は女の方が強いのだとオリンピックは証明しているかも。

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23年。

23年前の本日御巣鷹山に日航機が墜落しました。大変な事故でした。遭難されたかた救難、事故の後始末に尽力されたかたにとっては23年という月日は過去にはならないものと思われます。

その年の8月19日から旧ソビエトに旅行しました。事故からたったの一週間、それでも行くのかと言われながら行ってきました。なぜに行きたかったかというと、主人が仲間とショッピングセンターを立ち上げる話があり、出来上がれば私がそこで何か店を出すという話があり、地権者、県関係、テナント、立ち上げる業者と、今思えば無謀としかいいようがない、若かったのですね。話は大体は目処がついてきて、自分で店を切り盛りすることになれば、どこへも行けなくなる、どこか行きたいところがあれば行って覚悟を決めてきたら、の姑の言葉で、いっそのこと行けそうないところと思いきめ、旧社会主義国のソビエトに決めたのでした。

もちろん単なる旅行者でしたが、日本海を船旅で、それからシベリア鉄道に乗り、広い広い平原を走り、飛行機に乗れば、これが国内便?毎日同じ国内で時差があり、私の考えをはるかに超えた旅、体こわしてずたぼろになって帰ってきたけど、ともあれ世界って広い!、普段の常識なんてほんの小さなまわりの当たり前にすぎないことを実感。小さな世界から大きな違う世界を少しでも見たという感じでした。

当たり前、常識なんてちょっと皮をむけば、まったく違うことになる、多分商売を自分ですれば日々戸惑うだろうけど、それは自分にこだわっているから、こんな見知らぬ世界があることを思えば、多分なにほどのことでもないはずと思えたのでした。

翌年ショッピングセンターは完成、私も小さな店を構えました。店の売り上げに一喜一憂、支払いできるかと青白になったことも多かった、従業員に裏切られて悔し涙を流したこともあった。またやっとの店をかかえながら、次々と病人続出、あまりのストレスで私自身が入院、手術の憂き目も何回もあった。そして店をかかえながら姑、舅も看取ることができた。葉茶目茶の人生模様というべきかも。

気がつけば御巣鷹山に飛行機おちてより23年、遺族のかたの人生もさまざまであろうと思われる。そんな事故にもあわず、おかげさまで平坦なる人生を重ねてきたと思える私にも振り返れば、じつにさまざまなる人生模様である。そのつど降りかかってきた運命にただ悩みながら、泣き泣きでも対応するしかなかった。それで23年である。

我が家は商家であり、そこでの手伝いをしていただけであったのに、どうでも店を運営してきた。主人はショッピングセンターのデベロッパーとして薄氷踏みながらまたあれこれの商売にチャレンジしてきた。てんでにストレス病というべき持病をかかえながら毎日歩んでいる。

23年、会う筈のない事故にあってこと最初の意志とは無縁なる人生を歩んでこられた被害者のかただけでなく、何も起こっていないような順風満帆に見える人生にも深い皺が刻まれている。それぞれに一生懸命生きてきたというのが人生かもしれない。

お盆にもなるし、あらためて亡くなられたかたに合掌である。

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桃の思い出

今の季節果物は一年中で一番種類が多い、夏の果物、スイカ、メロン、桃、など、秋の果物葡萄、梨などももう出ている。さらに外来種の果物も一杯、目移りするしまた食べすぎにもなりそう。

桃といえばある思い出がある。私が大学生の時には先生との距離って今よりももっと近かったと思う。迷惑だったろうにゼミ仲間と先生の家に何度も押しかけて遊びに伺ったものである。その中でも県境の町に住んでいらしたM先生とはみょうに馬があって、就職してからも、そして単独で泊りがけで遊びに伺ったことがあった。この先生は京大で経済学を学び、さらに東大で哲学とくに美学を学ばれた人で博識であったけれど、多少嫌味な先生で苦手とする人が多かった。けれどどうしたことか私とは馬があって、泊りがけで遊びにおいでと言われていってきたもの。昔のこととて、車の免許もなく、鈍行で汽車に乗り、あとは歩き。

奥様と一緒に多いに歓待してもらった。大きな水密が出され、皮をするっとむいたら、上手だね~ほかのも剥いて、などと言われたり、先生相手にえらい古いゲーム盤なども囲み、家にあってはまるで子供と一緒の先生でおかしかったことを思い出す。翌日タクシーを呼び、先生夫婦と私の3人で昔からある温泉を目指した、後年その温泉で猿もみかけたという鄙びた風呂、奥様と一緒に女性風呂に入れば、中は湯気もうもうなれど混浴!若き私は隅のほうで縮こまっていたものです。あとから「あんたの裸を見た」などとからかわれたものですが、なんとものんびりした時代でした。その温泉は子宝に恵まれるという霊験あらたかな風呂として有名でした。息子さん夫婦に子宝を授けていただけるように、神様とて少しでも若い人に拝んでもらったほうが効果ありそうだから、代参して欲しいといわれ、一心に祈ってきました。なんとその効験あらたかなこと、ほどなく孫さんができられたとの報告を受けたものでした。後年その孫さんにお目にかかったものでした。

この先生とは長い付き合いで亡くなられるまでお付き合いをしました。10月19日に我が家での茶事にお招きすることにしていたのですが、その一週間前10月12日に亡くなられたのでした。10月12日は旧暦では「時雨忌」とよばれ、芭蕉の亡くなった日なのです。芭蕉に引かれたのか、そういうことどもを息子さんに教えてあげたりして、その後息子さんともお付き合いがあったもの。

たくさんの恩師といえる先生がいらっしゃるが、恩師にちがいないけれど、なんだか個人的に人間同士の付き合いをしてこれた先生はこの人しかいらっしゃらない。

白桃をみると遠い日の青春、先生との思い出がよみがえる。

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ある葬式で

6年の闘病の末に力尽きたご主人を見送られた人の家の葬式に参列してきた。6年前53歳でリンパ腫を発症、救命と治療のために大量のレントゲン照射、ために脳が萎縮、車椅子、さらに脳の萎縮のために痴呆となってしまわれて以来6年間、本当に病人、介護の彼女とも頑張ったと思う。息子が病気を発症、心配のあまりに、母親彼女の姑は脳梗塞を一年後に発症、二人の病人を抱えての奮闘であった。

ご主人がなくなる55日ぐらい前に、母親、姑は力尽きて亡くなられたもの。一切を抱えての奮闘ぶりは痛々しく、せめて愚痴を聞いてあげる、世俗的な対処の仕方の相談に乗ってあげる、たまには気晴らしに連れ出す、ちょっとしたおかずを届けてあげる、そんなことでの協力ともいえないほどの手助けだけしてあげてきた。

長い入院であるが、お医者さんはたくさんの病人を診ていらっしゃるものであるが、自分の家族の時にも感じたものであるが、いつ其のときが来るかわからないものなんですね。彼女も毎日病院に見舞いに行っていたのだけれど、前日に個室から大部屋に移され、CTでの検査もあったよし、検査が終わり部屋には医者、看護婦さんだれもいず、彼女のみ、みると息が長くなってしなくなったとのこと。彼女だけが最後を看取ったということになる。それは静かな別れであったそう。

そうとは知らず、私その日ももらい物の野菜でおかずを作ったのを裾分けしようとタッパーにいれて持っていた。来ないなと思って夜に買い物にでもでませんか、と言えば、ご主人なくなったとのこと。でも折角だからととりにきた。そして何もしてあげられなかった、と泣くのである。
長い闘病の末、彼女は病院には毎日行ってはいたが、それは一時間ぐらいのもの、其の間に彼女だけに無言ではあったろうけど、感謝とさようならの挨拶をされたに違いないと思うし、そういって彼女を慰める。お医者さんでもなく看護婦さんでもなく、あなたにだけの挨拶、それはご主人の深い愛だったに違いないと思う。

いつ其のときがくるのかお医者さんでもわからないのである。偶然であるかもしれないが、彼女だけが立ち会えたことによかったねと言うしかない。彼女55歳、実家にはもう両親はなく、嫁いだ家で見送るべき舅、姑、主人、女の務めをすべて果たしたことになる。55歳でやるべきことをすべて終え、以後何を頑張れば・・・と泣くけれど、今はたしかにそう、でも同級生が年をとって精も根も尽き果てて家族を看取る苦しさを訴えるときには、若くて力があり、本当にできるかぎりの看病をしてあげたことをきっと誇りに思う日がくるに違いないと言う。

とりあえず休むようにと思う。2ヶ月にもみたず、姑を見送り主人を見送る、こんなひどい人生もあるのです。しかも6年、5年の意識もままならない病人であった。むなしさをかみ締めていたのだと思っていたけれど、

病気になり彼女は勤めもやめ看取ることに専念してきた。そんな月日の積み重ねで、初めて夫婦になれたような気がするとも言う。夫婦のありようなんかは其の夫婦の組み合わせ次第、病人と介護人、それで夫婦になれたというのならそんな夫婦の組み合わせかもしれない。

そんな組み合わせの果てに、彼女だけにさようならをしていったのだろうと思う。

あれもこれも幻、錯覚だといえばそうかもしれない。でも深く納得しているのである。彼女とそしてそれを応援していた私にとっては。夫婦のありようも問われた感じがした今回の葬式である。

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盂蘭盆会

なんでもやればやるほどそれに執着するし、うっちゃってしまうと日々に疎しなんてまるで私のブログ。書くことに決めれば日々の生活の感度も高くなるはず。

盂蘭盆会は7月にやるところ8月にやるところ色々であろうが、先祖の霊迎え霊送り、墓参りはいっしょのことですよね。小学生の時に母親の実家、おばあちゃんちに行った嬉しさは今でも思い出せる。絵日記には初日は電車の絵、間にスイカの絵、墓参りの絵、海水浴の絵、そして帰り、最後の日の絵はおばあちゃんが作ってくれた夏のこととて、重箱に収まっているささげ餅の絵に決まっていた。

母の実家は海沿いの村、先祖の霊は海から帰ってくると信じられていた。8月13日の夜、おじいちゃんに作ってもらったたいまつに火をつけてもらい、海岸にならんで「お招来、お招来」と先祖を迎えるのである。子供のときは「オショウライ、オショウライ」ってなんのことか全然わからなかったけれど、今思うと「お招来」であった。海沿いにあっちこっちに海べりにたいまつの火が揺れ、夢を見ているような美しさであり、あの美しさにひかれて先祖の霊が帰ってくる、子供心にも納得、本当によい思い出である。先祖はどの火が自分を招んでいるのかわかるのだからと言われ、一生懸命たいまつを丸い弧を描くように振り回したものである。

墓にはおばあちゃんが編んださんだわらの上に、獲れた野菜で馬を作ったりしてお供えをしたもの、これもまた自分の家での収穫を先祖に備えるのであって、先祖に今の生活を報告、見てくださいと言っているようなもので、先祖は見ていらっしゃるのだということなど、言葉にして言われたことではないが、そのまま子供心に納得したものであった。

16日の送り火は、大きな火の塊、それはてんでのたいまつの芯の部分などを全部集めたものであろうが、それを一塊にして村の若い衆が海の沖合いに泳いで引っ張っていくものであった。村に帰っていた霊が、この送り火に導かれて遠い海のかなたに戻っていくという感じはせつないほどに美しく、死んだら海の彼方のあの世にいけるのはすごくおだやかな感じで、死ぬことなんていいことではないかと思ったもの。こんなに大事にしてもらえるなら、いつだってあの世にいけると思ったものである。

夢のような思い出、今ではどうなっているか知らないけれど、盂蘭盆会の行事は先祖に感謝する、死の世界を身近に見せる、子供への深い教育であったと思う。墓参りに行って、でも霊は海の彼方に、霊って自由にどこでもいけるんだねと思っていた。千の風になってなんて小さい子供の時にもう実感していたものである。

受け継いだ行事を昔の通りにして行う、その行事を現世のものが楽しむ、そこにはなんの疑問もなかった。盂蘭盆会の行事は本当に楽しい、美しい行事であった。

家の庭でおがらを焚き、霊迎えをし、また霊送りをするということをなさっていらっしゃるかたがいらして、ブログに書いてらした。霊は火で迎えられ、火でおくられるということに古今なっているのか。

我が家にはそんな行事は全然伝えられていない、墓参りは当然するけど、盂蘭盆会には親戚一同集まってということもみんな忙しい、さらに遠くに嫁いだ娘など、同じ時期に打ち揃ってということがなかなかできない。これもてんでの都合を重視せざるを得なければやむをえない。

私の子供の時のような行事は、家を守る女性の負担が大きくて大変という言い方もあるけど、あんなに楽しかった、そして心に残った行事はない。夏休み、どこかに旅行するなんていう思い出って結局後年それ以上のところに山ほど行くので印象もそんなに残らない。はじめから最後まで手作り、そして伝統的、丁寧な時間をかけた行事の数々、じつに贅沢な時間を過ごしたものだと思う。こんな行事連綿として続いているのに、なんの疑問ももたなかったけれど、簡単に省略しましょうと言い出せばあっと言う間に無くなってしまうものであろう。

我が家にももうすぐ娘家族が来る、孫は仏壇を参るのが好きである。お鈴を鳴らすのが面白いのだろう、ついの先祖の私の舅、姑の思い出があるからで、杖のおじいちゃんの住処なのである。こんな思い出を大事にとってやりたいと思う。小さい時の思い出って、自分を片付くっている重大な核になると思うから。

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墓参り

気がつけばこちらのブログはすっかりご無沙汰。
MIXIで「写し」と本物の話、という話題がすごく専門的ながら面白く、でも頭をふるに回転させておかなきゃという状態で、すっかりほかを省みる余裕がなかった。自分の頭のパイの大きさってこのくらいだったのねと自分でも笑いたい。

お盆は7月に実施するところと8月に実施するとjころがある。我が家も8月なので墓参りもまだ念頭にもなかった。私の実家では子供の時分は7月に墓参りしていたという気がするが、今では8月になっているようだ。

妹から父の墓と自分の亡き旦那の墓に参ってきたと電話があった。子供の時のことを思って7月のお盆と思い、花もそんなに持っていかなかったらお参りしている人はほとんどいず、花が足りなかったと言っていた。

墓参りといえば、姑が亡くなって14年たつが、なくなる前に「尊厳死の宣言書」を私に委託していたものだが、脳梗塞を二回おこし植物人間になったもの、ついては本人の遺書というべき「尊厳死の宣言書」は本人の意思とは無関係に実行してあげることができなかった。今では心穏やかだが、遺書を実行してあげられなかったことにひどく動揺、どうしてあげたらよかったのかと多いに苦しんだ、亡くなって、墓にあやまりにというか、毎日通い続けた、毎日雨の日も、雪の日も、しまいに朝の散歩になって結構気持ちよくなったのだが、いつやめてよいかわからず一年半ほど通っただろうか、父が具合悪くなり、その看病に時間を割くことにしてついに行かなくなったもの。

なんだかあまりに一生懸命墓参りしたおかげでか、舅がなくなってもそうは行きたいとは思わなくなって、世間並みになったかも。

妹はなくなった旦那が会社を残していった。その会社の筆頭株主であり、幸いに会社の業績は順調であるが、最近社運をかけて新商品を開発、売り出したとのこと。なかなか思うように売り上げが伸びないらしい。さらに亡き旦那がおこした会社であるが、今ではその色合いもだんだん薄まり、その苛立ちやら売り上げが伸びないなか、原材料が何億にもふくらんだらしい。苛立ちと不安は頂点であるらしい。墓参りは鎮静剤である。

私の経験から言っても、物言わぬ墓にむかって愚痴をいったり、心静かにぬかずき目をつぶったりして心をおちつけたりするのは、本当はなくなった人には関係がなく、まったく残っている自分の心の自浄作用である。問題を出すのも、答えを出すのも、自分である。墓は何を答えてくれるだろう。
でも本当に墓にはさまざまな問題をぶつけたものである。ぶつける相手がいて、感謝する相手がいて、カラスにからかわれて墓参りほど心落ち着けることはなかった。妹もきっとそうだと思う。答えは自分のうちにある。でも墓に行けば、なくなった主人が賛成してくれ、父が後押ししてくれると感ずることができれば、また悩みながらも前に進めそうな気がするものである。

妹の悩みは妹のものでしかない、それぞれ悩みを抱えつつ、それを消化する方法は色々だろうが、亡くなってしまった人はいつだって味方をしてくれる。亡くなって自分だけをおいてと嘆くのももっともなれど、生きてあれば全面的なる味方ではなかったかも。自分だけの味方、それが亡くなった人かも。

墓参りに、いまではそんなに行かなくちゃというひりつくような感じを持っていないのは、絶対味方をしてもらわなきゃならないほどのひどい状況ではないからかもしれない。そんな状況になりましたと先祖に感謝しに行ってこなきゃと思うのである。

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覗き見の楽しみ。

覗き見ってひそやかな秘密ありそうで後めたいと思うものの、やはりちょっと楽しみなものであろう。人の日記の盗み見なんて褒められるものではなかろうが、日記を読むのは楽しいに違いない。

そんな大げさな話ではないけれど、文学者の日記などはその人となりが伺われて面白い、でも文学者の日記はそもそも発表されることは承知していたものではないだろうか、そこに残すということが、そして書いたものがいつも発表されるということに慣れていたのだから、日記といえども、文学の範疇にははいるだろうと思う。

ブログというものもWEB上の日記であるけど、はじめからWEB上にあることは見られるということを前提にして書かれているものであり、親書を覗いたなどにはあたらない。書いている本人も、知られることを楽しんでいる場合もあるだろうし、また何かのキャッチボールともいうべきコメントのやりとりが楽しくて書いているということもあるだろう。

あるかたのブログ上に、いつも娘さんの日記を読んでみるとという記事が目につく。紙に書かれた日記なのか、ブログなのかは書いていないのでわからない。その日記を読んでは喜んだり、悲しんだり、心配の目は早くから摘み取るのがよく、親として心配なことには手を貸すのが当たり前というような感じ。ご主人にも娘さんの日記に書いてあったことを、報告心配しあうのだそう。

親書、日記を秘密を覗くようで楽しいものではあろうけど、これだけは人間としてやっちゃいけないことと思っている。もちろん主人、子供あての親書は開いたことはない。印刷してあるものでもやらない。請求書なんて出てきたら嫌だもんね。どんなに小さい時でも、子供の日記などは覗いたことはない。私がブログをやってることは、前に本を自費出版したこともあるから、娘、息子も知ってはいるが、多分読んではいないだろう。娘は子育てに忙しく、ブログどころか家計簿もパスという有様。息子は多分ブログなんてやってないだろう。見たくもなしである。

今親と子供って距離がそんなに近いの?と驚くばかりである。どんな形の日記かは知らないけど、日記に書いたことを親が知ってれば、見ていることなんて子供は知っているのだろう。そんなのに反発はないだろうか?見られてもいいほど、なんの秘密もないほどに通りのよい親子であり、また秘密の一つもないほどに子供って明るいものなのか、翳ってないのか、
明るい平板な人生なのか、影に彩られた重層的な人生が深いと思う。親に知られて特別困ることをやりでかした覚えはないけど、でも心のうちは死んでも探られたくないと高校生ぐらいの時は真剣に思ったものだ。今思えばまことに子供っぽい思いであったけれど、秘密をこっそり抱えていることが大人になったあかしなどと思っていたもの。もし親が親書を開封したりすること、文通の時代であって結構手紙はあったけれど、もちろん一回もなかった。ごく当たり前の常識である。嫁いだ我が家ももちろんそう、印刷したものをたまに開封されていてげっそりすることがあるけど、実際は何かの案内程度。

ブログはものすごくさかん、匿名性を利用しての心の呟きを、むしろ家族ではなくもしかして実感してくれる人もいるやも知れずで気楽に書ける。たくさんの人のブログ、家族の人って見ている人多いのかな。もっとも夫婦で一つのブログに顔を出していらっしゃるブログもあるから、共有なのか。

どうも日記といえば、心に浮かぶよしなし事を紙に書いてきた世代は、他人には比較的平気であるのに、どうも家族に見られるということに慣れないどころか、絶対嫌という思いがある。ましてや子供の日記を見るなどは、信じられない思いであるが、最近の事情はどんなものなのだろうか。

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優先順位

お茶を長いことやってると私の先生ではまったくないけど、ほとんどの教場の先生方は茶席を担当なさったり、あるいは各種の会の役員などが回ってくるようだ。ある一つの団体ということになると、そういう仕儀にはなるだろう。

ある方のブログに、ある会の役員を引き受けたという話があった。その人は自分は習いに行きながら、自分の家でも人を教えている由である。その会の役員には、そのかたの先生が推薦されてその役が回ってきたとのことであった。仕事もされている。当然忙しい方のようだ。

役員会と自宅の稽古の日と重なり、役員会を自宅での稽古日ですのでと断ったとのこと。それを役員に推薦された先生からひどく叱責されたとのこと。推薦人の先生の顔に泥を塗ったと反省しきり。その役員会には、一番下にいるものが当然合わせるべきもの。一番気楽な内弟子に日の変更をすべきなのだと。

そうかもしれない。役員を引き受けたからには、それに伴うもろもろの会合、席、雑用、当然あるはずのものであるから、それには当然参加すべきだと思う。

そうだろうなと思いながら、なんとなく引っかかるのです。弟子は一番気楽な相手、その人に変更を申しわたすべき?そうなのかと思うのは、38年も通っている教場では先生の都合で日を変えられたことは、多分何回もないから。細い先生ではかなげに見えるけど、自然が一番と泰然としていらっしゃるからか、案外丈夫で昨年倒れて救急車で運ばれるまでは、多分医者にもかかっていなかったのだと思う。風邪ぐらいは売薬をのみ、少しの熱ぐらいでも休まれることはなかった。座っているだけだから、大丈夫といいながら稽古はあった。稽古の日が変更になるような個人的な用事は、稽古日にははさまれることはなかったような。水戸に住んでいらっしゃる次男さんが、家を新築なさった、診療所を建てられた、そんな事情で息子さんが見て欲しくて迎えにいらしたことで、多分何回かは変更になったかもしれない。

稽古の日の変更は、その日を用意して計画をたてている人の時間を奪うだけでなく、次にといっても気持ち、日は立て直すのは大変、
なによりも人を教えるという約束をしたからには、当然日だけの約束は守るべきと考えてらしたと思う。こんな考え方が浸透しているので、当然稽古の日、時間は守るのが当たり前である。それが稽古というものだと言われていた。

何を習うということよりも、決めたことはきちんと守ることのほうが習うことよりも大事と言われている。その稽古ができなくなるような約束は当然いれてはおられない。長いこと通っているので、それが特別なこととは思っていなかった。こんなこともあってか、内向きであるゆえか、お茶、お花を教えていらっしゃることがすべてであって、それ以外に娑婆の義理などは一切引き受けてはおられない。そんなことは自分の任ではないと、固く固辞、教場での稽古がお茶のすべてである。

これではあまりに味気ないと県内の主なる貸し出してくれる茶室をお借りして、茶会は色々やってみた。全員を人数の関係で班を多い時は4つ、少ない時は2つにわけ、各班で工夫して茶会の真似事、全員が亭主、全員が客である。こんな会はよくやったけど、これも社中内での話。大寄せの席には出かけるけど、それは参加させてもらうだけ。

いささか物足りない教場であったかもしれないけど、お茶というよりももっと心の使い方、約束の重み、そういうものを習ってきたのだと思う。色々な話をほかから聞いてみると、じつに色々な教場があり、色々な先生がいらっしゃることを知った。

仕事を持って、教場に通い、自分でも教場を開き、なおかつ会の運営に携わっていらっしゃる人の忙しさはいかばかりかと思いつつ、
先生がこっそり私に言われたことを思い出す。おんなじ教場に通っていらした方、この方は学校の先生をしてらしたもの、そのかたのことを忙しい仕事をかかえてのお茶、いくら長年月続けていたとしても、心がお茶には向いていないもの。お茶が深まるものではないと言われたことがあった。実に無駄な時間の余裕ある使いかた、それがお茶に一番必要なことなのですと。

忙しさの中での一服は心の安定にはよきものかもしれないけど、お茶の深まりというのは、何にも縛られない時間、心が一番なのですとのこと。
色々な考え方があろうけど、私は自分の先生の考え方が好きである。

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さて

水泳に通ってもう10年になる。父を見送るさいに腰を痛め、これでは親も満足に見送れないと始めた水泳、父が亡くなって10年かにもなる。最初は水の中での歩行さえもできず、足がとられる始末、情けなかったけれど、今では歩行300メートル、水泳大体1KMぐらいは泳いでくる。さすがにへとへとになって午後は眠くなったりするが、肉体の疲れは気持ちいい。

大会にはあまり参加はしていない。タイムなんて全然あがらないし、体力維持と思い決めているので。10年、週に二回は泳いでいるが、残念ながらダイエットにはまったく貢献していない。風邪をひかない、肩こりは解消したという程度の効果はある。

オリンピックの年、水着問題がかしましかった。なんでもその水着を着れば、タイムがあがるらしい、太もものあたりで一流のアスリートで4~5CMも縮まるし、バストあたりは8~10CMも縮まるというではないか。どんな水着だろうとわくわくしていたら、どうもその水着は一人では着られないし、縮まったのはもちろん消えたわけではなく、締め付けているので、どこからか余った肉が飛び出るとのこと。こりゃ絶対着れないわ。覆われていないところから、ボンレスハムがにょっきりと、こりゃ洒落にもならない。タイムが多少早くになったとしても、諦めるしかない。

日本のメーカーのかたの開発努力もすごいものであったらしい。テレビで見ていたら、一流のアスリートに試作品を着てもらう。都合の悪いところを直してさらに改良、改良の方向は、体を締め付けず、本人の力がまるでものを着ていないような感じで100%本人の力が発揮される方向にあったようだ。本人の力だけを信ずる、それを邪魔しないという方向らしい。アスリートに引っ張られるだけである。なにせ超一流のアスリートなのだから、本人の希望を尊重する方向である。

問題の魔法の水着は、方向から言って、アスリートに引っ張られているのではない。体を圧迫して、ある程度の抵抗はあっても、余分な肉のたわみみたいな余計な動きをセーブするという方向である。もとの理論がまるで違うようだ。一流のアスリートだから、そのままでいい、そんな方向ではなく、むしろ向こうの理論にあわせて体を水着にあわせる感じである。

今回の水着騒動は、日本のメーカーの開発の方向が今までのままの延長でしかなかったのに、新しい考え方を導入した、その考え方に負けたというべきであろう。

発表されると、コロンブスの卵で、そんなことはわかっていましたなんていう言い訳はみっともないだけである。

これは水着の問題であったけど、今までの考え方、その延長を修正して完成を目指すという日本の得意な考え方の限界を見せたような感じがしないでもない。

あたらしい、今までは非常識ともいえた考え方の中に、じつは今の常識を超えたすばらしい宝が埋まっているかもしれないではないか。

あの魔法の水着を着ることができる、できないということよりも、考え方の基本のところに考え方の脆弱さを見て、日本大丈夫かいなと思ったのでした。水泳をふくめてオリンピックで日本選手に頑張ってほしいけど、こんな大きなイベントがあると今まではなかったような考え方が出てくることがあるんだね。こんなのもオリンピック効果というのだろうか。

非常識の中に潜む宝、見過ごしているものの中の原石。どうやったら見つかるのかな。

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挫折

挫折って否定的に用いられる言葉。挫折ってしたくもなしとは思っているものの、誰だって小さな挫折を繰り返し、それを乗り越えてきたもの。そのつど自分の力を駆使して、涙こらえて乗り越えてきた。

挫折をしないように子供にはよけるように育てていることが多くないだろうか。姑は商売上手であったし、元気で積極的な人であった。もし挫折するような事態になれば、笑いながら乗り越えることができそうであった。ところが脳梗塞を起し、自分の意のままにならない現実に直面したとき、まったく無茶苦茶になって収拾のしようがなくなった。仮面うつ病という診断であった。どう対処していいかまったくわからない、精神科の先生いわく、元気なとき非常に積極的で有能に見える人がかかりやすいとのこと。原因が小さな時、自分の乗り越えるべき小さな挫折を、親、まわりが取り除くことに一生懸命なあまり、本人が乗り越えるべきをまったく乗り越えてこなかったことによる、人生に一大事を乗り越えられなくて混乱を起している状態、まわりの様子を伺っているのですとのこと。

幸い現代ではそんな状態を改善することができる薬物療法もあるけど、性格は直せない。見守りながらほっておくことですと言われたものであった。

小さな時の本人が乗り越えるべき挫折、何かが人よりもできない、家庭がうまくいってない、金持ちではない、えとせとら、
こんな不平等による理不尽ともいえる挫折、こんなのは社会にでれば、如実にそれぞれに降りかかり、目をつぶって見ないようにしていた現実、あるいは不平等そのものによる理不尽さに唖然とすることはしばしば。

子供の時には、世の荒波はいつか体験しなきゃならないから、暫くは幻影の中で育ててやろうというのは大いに間違っていそうである。親の手の中にいて、自分はなんでもできるなどという全能感の中での幻影の中は、ほんの子供のころならいざ知らず、まったく現実とは遊離してしまっている。

少しづつでも、不平等なる現実を教えて、それにもかかわらず元気に前を向いて進む価値はあるのが人生であるということを小さい時から教えておくべきではないか。不平等を解消しようと公が頑張らなければならないことはいうまでもないが、どんなに頑張ってもらってもなおかつ不平等なるものが人生であり、そんな挫折は自分の身で乗り越えようとする力を蓄えておくべきだと子育ての指針にしたいと思う。

三つ子の魂を人生のしまいつけのあたりでどっと出し、まわりを大いに困惑、悲しませた姑の例を見てきたので、ほんとうに三つ子の魂の育て方って大切なんだと思うのである。

とんでもない事件を引き起こした犯人は、家族の中での生育暦の中で、小さな挫折を乗り越えるべき力を培ってこなかった結末にみえてしかたない。

挫折って否定的な言葉であるけど、小さな挫折を繰り返し、それを自分の力、まわりの協力で乗り越え乗り越え、挫折って人生を彩るもしかして一番面白いことだったかもと思えるほどに力が蓄えられたらいいなと思う。

もっとも自分の力をこえてしまって、滅茶苦茶になる恐れはいつだって、誰にだってある。えらそうにいう資格は一切ないけど、小さい時からの挫折の経験は、人生を深くさせてくれる一つまみの毒かもしれない。

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狩猟民族

人間は誰でも食べ物をうるために働く、これは太古の昔から。狩猟のために移動、そしてそれが得られると落ち着いて寝るところを確保する、それが家庭の始まり。

現代の狩猟は働くところ、それはたいていの人は会社。狩猟したものは、現物ではなくお金として支払われ、狩猟の賜物は、その現金で好きなものを買ってそれで自分を養う。それって昔と少しも変わっていない。その間の仕組みが整理されて、むずかしそうに見える形ではあるけど、狩猟の形の原型はそのまんまといえるかも。それが生きていくことなんだね。

インターネットで読んだ記事で、読み返そうとしたけど、こんどはどこだったかわからないけど、要約するとこんな感じ。

アメリカで携帯電話の中継局をつぶさに注意してみると、具体的にどこに電話したかではなく、どこの中継局からどこの中継局に繋がっているかを調査すると、ほとんどの人、たしか70%代の人がたかだか二つの局に突出しているとのこと、どうも自宅と仕事先らしい。携帯電話の使用って、ほとんどが自宅と会社。現代人て行動が広いと思われているけど、極端に便利になってしまった現代では、非常に行動範囲が狭いということが判明したというような記事であった。

なるほど動かなくても動いていると錯覚する繋がりが、たとえばテレビにある。あっちこっちの情報が洪水のごとく流れてくるけど、本人はソフアに座っているだけである。遊び、勉強、音楽、えとせとら、あらゆるものが座って取り出せると思っている。せめて付き合いの範囲が広く、あっちこっちの電話だけでも繋がっているのかと思いきや、案外我が家と仕事先だけ。携帯電話ってなんでいるの?

付き合いが広いから、狭いからは別になにも関係ないのかもしれないけど、狩猟が人間が生きていくための最低の条件。そんなにちっちゃいともしかして、極端に文明が進むと、根源的な生きていく力がだんだんなくなっていっているのかなと思ってしまう。

ただの妄想かもしれないけど、新しいものに対する好奇心の欠如とか、人間関係の狭さとか、徐々に力がなくなってきているんじゃなかろうかな。妄想ですとも言えないと思うのです。

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着地点

私の住んでいるところは小さな田舎の町の商店街です。こんな商店街は今やほとんどの町では壊滅状態。親から譲られた小さな店を切り盛りしていた跡継ぎは、次々に廃業、中年になって勤めに出たものである。町はひっそりしているが、今でも一年で一番賑わう行事の七夕を控え、毎日町内出られる人はこぞって出て、短冊や飾りの作りつけに工夫をこらしている。毎年変わらぬ風景である。昔はみんな町で商売していたので、こぞって参加したものだけれど、今や勤めに出ている人が多く、しかも中年になってからの勤めだから贅沢なんていっておられず、夜集まっての作業だけれど、全員なんてことはできなくなった。私の知っているかぎりでも、もう40年近く、みんな年をとったな~と思う。

こんな町内だから、年金なんてのも国民年金に多少加算されるぐらいか、みんな元気で働きたいというような状況。

その中で、商店街の中にあっても、奥さんだけが酒屋さんをしていてご主人は公務員であった人がいる。ご主人定年になり、さらに郊外型の酒のデスカウントショップが増え、酒屋の免許を売れるときに売ってしまい、いまや楽な老後ともいうべき人がいる。子供さんは皆優秀で独立され、なんの心配もないという家。みんないささか羨ましく思っている家であった。ここの奥さん、みんなが羨む状況で心配事はまったくない感じ。

さてこんな心配のない日々、みんな目標にしたい家族かもと思っているのに、ここの奥さん、ただただ病気になりたがっている感じなのです。息子さんの一人は医者、その人に振り向いて欲しい、ご主人にただただ心配されたい、そんな思いで病気になっているのかなとしか見えない。よその家庭の中はもちろん見えないけど、誠実な旦那、やさしい親思いの息子、みんな自慢の家族のように言っている、

心配事がない、余裕ある日々、これって羨むべき目標のように思っているけど、実際はすごくつまらない、充実していない日々なのかもと思う。やむなく年を重ねてもかなきゃならない日々って、つまらない、辛い日々ではなくて、とっても充実した日々なのかも。心配をかけるあまり出来のよくない子供たち、これってもしかしてすごく親孝行かも。なにせいっつも見守っていなきゃならない、老いている暇もない状態の忙しい、心配事ばっかりの日々、うんざりなんかしてられない。こんな状況って、頭だけでは生産されないからね。大変な状況に立ち向かう力が必要だからね。余計なことを考える暇もなかったりするから。

忙しいって、心を亡くすると書くわけだから、忙しさって否定的に捕らえられている。でもそうじゃないかもと思ったりするわけです。

小人閑居して不善をなす、という程度の小人の集まり。閑居というのは年に関係なくあんまり褒められたものではない。老人の生きがいなんていわれているけど、生きがいなどという言葉に惑わされず、心配事が生きがいなんだと嘯くなんてのもいいかも。

いつまでささやかな商売続けられるかなと考えるとき、小人である私、閑居は褒められたものではないものなのかと、止めようという着地点がぐらついてくる。何もすることがなく、周りのものにただただ認めてほしいと擦り寄っていくなんて、まったくぞっとするもんな。年寄りの甘えなんて、見てても可愛くもなし。

老いの着地点てなかなか難しいのかも。

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自己愛

世の中を震撼させた無差別殺傷事件、なんとも痛ましい、こんな理不尽な事件がおきると自分で何か納得できる点を少しでも見つけ、気持ちを少しでも静めたいと願うもの。

そこでいろんな解説がさまざまあるけど、その中に「肥大した自己愛」という精神分析医の言葉を見つけた。そんな肥大した自己愛というのは、子供の時にあまりに期待され、またまわりはやり遂げ、つまりは自分の全能感を作ってきたにもかかわらず、大人になればできることはなく、周りからは少しも認められることなく、無視される、肥大した自己愛の爆発、なんていうような趣旨であった。

自己愛がどんなふうに形成されるか、そりゃ、自分をかけがいのないものとして認め、自信をもって社会に薦めるように、親としては大いに気を使って本人をほめ、自信を持てるように育ててくる、そんなやりかたのどこかが狂ってきたのかもしれない。

自己愛というのは自信を持って、自分自身の人生に立ち向かえる力にもなるけど、一方では肥大するとやり場がなくなる。こんなとき、そんな自己愛というのは良きものであり、また悪きものにもなる。これがバランス崩れるとというのは、本人に想像の力がないとどうもバランスはとれない。

自分では一人の人生しか生きられない。こんな人生に重層的な厚み、深みをもたらせてくれるのは、厚みのある人生を本からでも学ぶことが大事だと思う。

中島敦の「山月記」を思う。肥大した自己愛、自分に対する絶対的な価値感に縛られ、そしてそれを認められずに、心に鬱積していった自分への期待感、それがついに虎という姿になって、月にむかって咆哮する。
格調の高い美しいかつ流麗ではあるがかたい漢文調、若い人が書いたと思えぬすばらしい文章もさることながら、肥大した尊大な自己愛に縛られた秀才の行き着いた先、その絶望感とみにくい姿を月に向かってしか発散できない悲しみ。

勉強につぐ勉強、類稀なる秀才とあがめられた栄光の日々の先にあったものの惨めな、かつ醜い姿。こんな筈ではなかったのに、これはその勉強の目標が知識の習得、さらにそれを利用しての社会に役立つ栄光の姿の筈であったのに。物を知る、知識を深める、それが自分だけが秀才、誰もついて来れないのは、自分が圧倒的に秀才であるから。だんだん自分だけが・・・の尊大な自己愛を積み重ねていってしまった。こんな人間の悲しみは、結局人間であることもできなくなってしまった。その自分を恥じて咆哮するしかない虎、もう人間ではない。

こんな話は荒唐無稽だろうか。すぐれた文学作品は時代をこえて人間の本質をするどく、かつあたたかく指摘している。そして人間とは、自分とはということを考え直すきっかけにしてくれる。

世の中の毎日の出来事。それは実にさまざまで、それにかかわった人は、自分だけが特殊な人生に会ったと思うだろうけど、またそれぞれのかけがえのない人生であろうけど、人間の本質に迫る真実は、時代、国をこえて普遍的なものであろう。そうであるので、人生を考える、自分がわからない、迷う、そんな時には人間の本質をするどく指摘しているさまざまな本を読んでみたいと思う。自分だけが、つらい、悲しい、ひどい、こんな傲慢をいさめてくれるのも、またそんな自分に寄り添ってくれる本もある。

今そんな本を読むまどろっこしさが受けていないのか、文学は必ずしも受けているとはいえない。最近の本は、繊細な、些細な、日常の世界の小さな心の動き、それは共感できる人には共感できるという、少し世界の小さい話が主であるみたい。

自分の生きられる人生なんて、たかだか80年、そんなにたくさんの経験ができるわけでもない。人間を考える、人生について悩む、みんな大切というよりも当たり前のことでまた楽しいこと。

本を読み、肥大した自己愛の末路を知る、自己愛をどういかすか勉強する機会が多分犯人にはなかったのだろう。

本を読む効用はきっとあると思っている。
面白いわくわくする本いっぱいあって読みきれず、最近は目の問題、さらに持続力の問題あってなかなか大部のものを読みきれません。若いときからの訓練大事です。

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はざまで

生命保険会社から契約保険料の払い込み期間が満了を迎えます、との案内が。嬉しいのだけれど、次々にもう掛けなくてもいいよの案内がくると、そんな年になったのかと複雑な思い。

厚生年金ももう掛けなくなってよくなって、いただくものの案内をみると、よその人からみると多いといえないのかもしれないけど、こんな額を年金受給者に払い続けるって大変だな~と思う。昔の人ってたくさんの子供を生み育て、末っ子がようやく一人前になるやならずやで、力尽きて命を終える、実にほかの動物とかわらないシンプルな人生の交代であったもの。今や多少のくたびれは自覚するものの、こんな年になったのなんていう自覚がまったくない。働くのが当たり前、働いたお金の何がしかは、将来に向かって払い続け、備えるのは当たり前と思っていた。もう備えるべき構えではなくて、そんな備えられる事態になったのかと驚いている。

長生きはめでたいなんて言ってられない。60歳から年金を支給して、たとえば85、90まで生きたとしよう。私は大学を出てから共済年金加入が4年、それは一時に払われたとのこと、たしか20000円代だったような。嫁いだ言えは個人事業、国民年金に加入。個人事業には社会保険は加入させてくれなかったものである。自分で会社組織をつくり、それ以来社会保険に加入、昨年疲れて会社組織を解散、そこまで37年の加入であった。

たかだか37年の加入、長生きしたとしよう、85までで25年、90までだと30年、現役で働いていたものだけれど、25年、30年を支えるなんてどうしてもできると思えない。

自分の計画では65までは働き、80ぐらいに死ぬ、15年の人生を支える、それくらいならできるはずと高をくくっていた。

いま後期高齢者の保険で色々言われている。言葉はまずいかもしれないけど、どうして若い人にそんな負担を強いられる?利用するものが応分の負担をするのは当たり前だと思う。

消費税をあげるべきという理論もっともである。

それよりも長生きするのだから、暇な時間は一杯でてきそう。遊ぶことって忙しい、働くことがあってこそ楽しい。毎日が遊びなんてつまらない。もっと働くという方向が好きである。

個人事業って退職金もないし、年金にも会社や職業で掛けていた余分なものは一切ない。それは覚悟の上であったから、個人年金なども掛けてきた。計画はだんだん終着点、払う側から貰う側への転換、どうにも落ち着かない。だけどそんな事態にはすぐ慣れるんだろうね。

自分の老後は自分で面倒みるしかないと、若いときから覚悟はしてきたつもり。

首相の問責決議案が参議院を通ったよし、誰にでも良い顔を見せたい、政治家ってとくに。でも仕組みそのものが破綻してしまうと、ささやかな私の計画もぱ~になる。人任せではなく、自分の面倒は自分でみる。シンプルな生き方である。あなた任せにして何が面白かろうと思う。何によらず、公平って幻影でしかない。誰にも優しいなんてたわごとである。

大人としての考え方をしなきゃ、それにしても今払う、貰うのハザマ。世の中がよく見える気がする。

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遺伝

亡き姑はまことに働き者であった。というか姑の働き方は、自分が体を直接動くというよりも段取りがよく、人をして働かせるのが上手というべきか、商売上手で熱心であった。商売が好きという感じで楽しそうな日常であった。当然仕事は第一、地元で商売させてもらっているのだからと、地元での目立つ言動は慎むようにときつく申し渡されていた。なるほどそれもそうだわねというわけで、近所付き合い、地元との付き合いは極力控えめにして、電車で地元離れたら大いに羽を伸ばしてもよい、というわけで、姑も私も旅行大好きになり、それも誰にも言わずに出かけ、お互い一人旅行は楽しんだものである。それが習い性になり、どこでも一人で出かける、誰とでも話合える、こんな性格は姑に大いに鍛えられたか。よくも悪くもすごく学んできたと思っている。

家では働き者、趣味とてない人であったが、晩年大いに民謡が好きになり、家族は歌っているのを聞いたこともなかったけれど、県外まででかけて大会に飛び入り参加していたらしい。北海道の江差にまで出かけ、二日間朝から晩まで江差追分の大会にでかけたこともあった。それも全部人には内緒、一人ででかけたものである。もしかして何かがあったらということで、連絡場所と出かける場所は、私にだけは言ってでかけたのだけれど、まったくの一人旅。仕事の息抜きは大掛かりなものであった。家にいるときは商売が一番、その姿勢を崩すことはなかった。

私はお茶だけは通い続けたけれど、ひたすら真面目に仕事に取り組んでいるように見えながら、実は姑と話し合って、結構息抜きしていたし、海外旅行にもよく行っていた。よそ様には全部内緒である。今や趣味は筋金いりになってしまって、趣味か仕事か、になるとおおいにあやしくなってしまった。姑の教えもなんにもならないとあの世で嘆いているかも。

小姑も母親に似て、働き者、この人は自分の体を使っての働き者である。まったく趣味もないただ働くのが好きなのかと思っていたら、60歳を過ぎてから民謡を始めたらしい、しかもかなり熱心に。音楽を口ずさんでいるのも聴いたことがないけど、大会に出て、かなりの所までいったらしい。声がよかったの?家族に聞いても歌ってるの聞いたことがないとのこと。こんな遺伝てあったのね。驚き。子姑の家は亡きだんなの好みで、銘木で建ててある。階段が一段一段、紫檀でできている家、すべって落ちないかと思うような家。当然茶室も水屋も作ってあるのに、稼動しているのを見たことがない。茶室は何なのだという有様。

年をとってから、親の遺伝て現れるのだね。驚いている。先日発表会に出るのに、いつもの着物ばかりではなんなので、私に着物貸して欲しいといわれ、発表会?と驚いた。

姑の生き方の真似というか、遺伝というか

私の場合は仕事、家族から離れる日常からの飛び立つ気持ちのお茶にどっぷりつかっているし、小姑はまったくの遺伝形質だったのか、歌、
なんだか姑はもうなくなって14年もたつのだけれど、長い時間生活をともにしてきたからか、その生き方、時間の使い方、仕事に対する真剣なる考え方、そしてそれを長続きさせるための息抜きのしかたなどなど、実の親からよりも学んできたことは多いというか、だんだん似てくるのが自分でもおかしい。

そして小姑は我が家から出て長い月日の末に、やはり親からの遺伝をしっかり年をとってから開花させているのがなんともおかしい。次の代にこれだけの影響力を及ぼすことができる人は珍しいかも。
なんだか苦笑の日々である。

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今回の四川大地震で中国が地震大国であることを始めて知った。活断層が無数に走っているのですね。もめてるチベットのあたりは、太古の昔地表が盛り上がってきてできてきたところ、そうすれば大きな大陸の裂け目、切れ目が押し競饅頭みたいになって活断層が無数に走っている。考えてみれば当たり前のことなんだけど、今まで中国の地震が大きく報道されていたこともなかったようで、うかつにも地震大国なんて認識もしてなかった。

山崩れがおきて、たくさんのせき止め湖衛星写真で紹介されている。昔から地震、せき止め湖、それの決壊したのは、今ほどに知識もなく衛星なんてなかったことを思えばものすごい被害があったにちがいない。

衛星写真を見ていると、あの中国の大きな川って、まさしく龍の姿そのまんま。せき止められて無尽にあちこちに手を伸ばした流れは、龍の爪そのものである。

皇帝の衣裳って五本爪、あれってあちこちに暴れまわる川の治水こそが皇帝の象徴なのだと思えた。中国での古代の国、殷とか商とかでは、歴史では甲骨文字の発明こそが現代文明の基礎ですなんて習ったけれど、あの甲骨文字は治水に関しての占いに違いない。天の声を聞く、その真意を伝える、それが文字の始まりなのだろう。う、とか、こん、とかいう皇帝は川の治水に成功した、あるいはうまく川をなだめることができたそれが初期の皇帝なのだろう。

そういう歴史的なものを踏まえて、川に対する、あるいは自然に対する畏敬の念が龍をあがめるということになったのだと実感できたものである。龍というのは想像上の動物であろうけど、あれは川の姿そのまんま、五本もの支流を出す、暴れ川をうまくなだめることができる人が五本もの爪を装飾した衣裳をまとうことができるということの象徴なのだろうと思う。

衣裳にかぎらず、焼物にも龍の模様があちこちにあり、それが爪の数も増えていけば、きんきら度も増していく、あういう装飾が好きな人達ってどうよと思っていたけれど、あれは単なる意匠ではないのですね。自然に対する畏敬の気持ち、さらには、その自然をなだめることができるように、その自然が災いをもたらさないようにと言う気持ちをこめた歴史的な必然からきた意匠だったのですね。

龍の紋様をただたんに人気ある紋様ととらえて、ぺたっとした龍はやまほどいるけど、ことのおこりは治水に関してのこと。

龍というのは自然が持っているエネルギーの象徴なのね、さすれば龍の紋様を描こうとすれば、あくまでも威厳があり、そしてそれに対しての畏敬の念が感じられるつつましさも持っていなきゃならないだろう、

赤絵の鉢なんか龍の模様ありさえすれば、なんて言ってないで、龍の紋様の本質を捉えてあるかなと焼物を見るべきなのだろうと思ったものである。

時代は進歩して、衛星写真で龍の全容まで見ることができるけど、昔の人は目の前におきたことしか見えてなかっただろうけど、想像の翼は今の時代の人よりも遥かに大きく豊かであったのだとつくずく思ったのでした。

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日本史の勉強

学生時代日本史は好きな教科であった。歴史は旧石器、新石器などから時代をおこし、縄文時代、弥生時代、火炎土器から農耕がおこりなどからゆっくり始めるものだから、時間切れになってしまって近代の歴史はどうにか消化するけれど、現代史はまったくやってなかったような。昭和史は戦争に突入という暗い話で、その時代の様相などはまったく習っていない。一番知りたいことばかりであるし、大切な現代にもつながる貴重な体験談としてとらえるよりも、とかくに否定的な捕らえ方か、あるいは自虐的な史観とか、さもなくば妙に保守的とばかりの、どこをとってみても今一、納得できない歴史の書き方ばかりである。

先だってより松本清張を読み直している。ずっと昔に読んだものが多く、推理小説とて読み始めれば大体は思い出す。それでも読み続けるのは、昭和30年代の風俗と思えば非常に面白い。昭和30年代、女性の捕らえ方とか、若い女性ってこんなに成熟していると考えられていたのか、さらに戦争の影はいつまでも残っていたのだなとかを見る、一種の時代小説といってもいいかもしれない。人間心理のあやなどは少しも古びてはいない。

松本清張の全集の中に「昭和史発掘」というのがあった。もちろん資料を駆使しての昭和史をいろどる事件の真相を色々探っているのだけれど、それが今まで見てきたような無理のある史観に裏打ちされているのではなく、資料を色々駆使しての結構客観的な歴史、これが非常に面白い。こんな歴史を学びたかったと思う。「芥川龍之介の死」「潤一郎と春夫」の二編は、文学史のなかで興味ある事件でかなり詳しく調べていて、自分なりに納得していたけど、それを裏付ける資料による話は面白かった。

「天理研究会事件」などは宗教と皇国史観とがみごとにリンク、皇室否定にまでいってしまった宗教のありようも興味深かった。宗教というのは諸刃の刃になるのが昭和という時代であったから。信教の自由をうたう筈だわとか、昭和の中味がよくみえてきた。

曖昧模糊として亡羊とした昭和史がよくみえてくる。

それにしてもこんなに面白い歴史、しかも本当に知りたい歴史を時間切れとして少しもならってこなかったのは残念である。今でもそうなのかも。一つの事件をとってみてもその資料は厖大なものであり、しかもそれをどんな形にまとめあげるか、そして文章力の問題。こんな昭和史をみてみると、歴史って暗記物なんていってられない。明治維新からの近代史が現代史にどう結びつき、それがまさしく今の時評にどう結びつくか、別の教科として勉強したらいいのにと思う。

昨今英語の勉強を小さい時からすることばかり力がはいっているけど、自分の国、自分のことをよくわかっていなければ、どんな国際化もないだろう。英語にかわって、現代史の勉強を進めたい。なにしろ面白い。

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置物

当地の桜もいよいよ満開になった。あちこちに桜の名所がある。花見にきっといってないだろうと母を誘いにいってみた。「車から少しもおりなくていいし、近いところの桜の名所を見にいってこよう。車に乗って。」喜ぶかと思いきや、全然行きたくないとのこと。先日温泉に家族勢ぞろいで行った折にも孫、ひ孫の顔を久しぶりに見れるのだし、私、さらに妹も行くのだし、気楽だろうし、世話をしなきゃならないことがあっても大丈夫と大威張りで誘ったのだけど、これもあっさり断られた。しかも断るというよりも完全拒否、がっくりきてしまって強く勧めるのも面倒と連れて行かなかった。

ほんの近くの桜見物でさえ行きたくないとのこと。どこが具合が悪いというわけでもなく、着替えたりなどの面倒も一切ないのにである。

母親は専業主婦、父親は戦後から小さい工場を経営していて、さらに世話好きでもあったからか、外に出ることは好きであった。父が存命中はちょっと誘ってもいつも喜んで出てきてくれたもの。温泉でよし、日帰りでよし、どんな計画でも面白がってくれた。母はそんな場合、父とは一緒にでてはきたが、結局外に出ることは嫌いであった。自分からすすんで外にでたり、友達を作ったりということは苦手であった。美しいものを見て美しいというような感受性も今一であったと思う。

ただみんな出かけて家にはいつも一人、若い時には洋裁をしたり和裁をしたり、私の嫁入りの様々な着物、洋服の数々、全部母が作ったもの。何年もかかって、ただただ家族の為のものを作ったり、家を掃除して居心地よくしたり、料理したりはまことに得意で、家族の為になっているということが喜びであった。自分を無にして家族の為に生きていたといったほうが正解かも。もちろん感謝はしているけど、今や年老いて家族の為にも、自分のためにも何もしたくなくなってしまった。多分あの人の家事の仕事の満期になってしまったのだろう。毎日退屈だろうと思うけど、何十年もいつも一人でいたのだから寂しいなんて全然思わないみたい。弟夫婦が定年を迎え家にいるようになったのが鬱陶しいと感じているくらい。家が好き、家の置物みたいになってしまっている。

年をとった親をどこかにつれていったりすると親孝行の真似をしているみたいで気持ちいいけど、じつは全然出かけたくない人もいる。

桜の時期になれば花を請い、天気の崩れに気をもみ、散れば季節の移ろいを思いなどの繊細な心使い、誰にでもあるのではなく、実は長い年月をかけて積み上げて作ってきた感情かもと思う。桜なんて毎年咲き、何が面白いまではいわないけど、感情の鈍磨は誰にもきそうだけど、なるべく瑞々しい感情を維持したいものだと思わざるを得ない。

長年月みんなでかけて外では色々な刺激を受け、勉強もしたり、仕事もしたりしてきた家族を支えるだけの人生を母に押し付けてきたことを今残念に思う。何か面白いことはないのかと思うけど、若い時にさえ面白くなかったものが今始めて面白みがわかるというものでもない。

置物みたいにべったり居間に座られている弟夫婦は気詰まりなことだろうと同情する、それはまた母にもいえる、今まで一人でのびのびしていたのに夫婦でそこにいられるのもまた大変だろうと思う。

こんなのが大変なんていうほどのことでもないけど、年をとると柔軟性が減っていく。誰にでもあわせていくのは結構若いときからの訓練が必要なのかもと思う。

深刻ぶることでもないんだけど、とかくにこの世は住みにくいというのは本当である。

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元気が出る理由

先だって娘家族が来てしばらく滞在していったのだが、主人孫可愛さにあまりに張り切りすぎて疲れが出たものか、風邪をひいたのだろうけどなかなか直らない。食欲もなし、ぐずぐずしているうちに5KGも体重が減ってしまった。それくらい減っても目立ちはしないという体型なんだけど、さすがに心配になってくる。

つれあいが元気をなくしてくると、やたらと張り切って元気がでてくるという性癖である。この一週間、春になったということもありやたらと汚れが目につく。そこで掃除。もともとは家が店として使われていたこともあり、住むだけにすれば大きすぎる。ましてや家族は減って掃除人は私一人。いつまでもつかわからないけど、掃除はじめるとやたら次の要掃除の場所が見えてくる寸法である。

この一週間でやったこと、まずは窓拭き、今では庭に面して長戸ばかりなんてのははやらないというより、建築基準法で許可にならないのではなかろうか、18枚を一日ではちとつらい、2日間かけて、敷居まで掃除。トイレは三箇所、ちょっと徹底的に掃除。カーテンをはずして洗濯、シーツは一週間に一度しかこない息子の分も含めてはずして洗濯、娘家族が泊まっていったのでその分三人分もはずして洗濯。風呂は我が家は人数が少ないわりには、時間が不定期なもののあつまりなので、しかも風呂好きときているので、いわゆる24時間風呂にしている。これが結構大掛かりなものなのです。この掃除はいささか武者ぶるい、たまにしかしなくていいのだが半日がかり、これも頑張ってやりました。

陽光かがやく春の光の中では、どうも障子までくすんで見える。障子の張替えまでしたくなる始末。ここまでくると決意しなおしてからである。窓拭きは二階部分長戸20枚ある。エネルギーきれなきゃいいけど。

つれあいが具合悪くなったこと過去にもなんどか、そのつどやたらと力がわきあがってきて、どんどん何事もやれそうな気がする。過去にあわやのこともあったけど、冷静になって連れ合いの仕事のバトンを受け取った気になってどんどんすすめて銀行まであきれさせたことあり、親は我が子ながら大したものと言ってくれ、後日退院したつれあいからは感謝されたこともあった。

どうも危険が迫ると、泣いて丸まって危険の過ぎ行くのを待つタイプではなく、しゃにむにすすむという風にインプットされているらしい。

自分の分とがむしゃらは仕方なしと思っているけど、いつまでも力振り絞るものでもなし、少しは静かに対処すべきなんだけど、馬鹿力しかないんかと自分でもあきれながら、できるところまでは行ってみましょうと思っている。

それにしてもこれだけ力いれてるのに我が家ちっとも美しくならないんだけど、こりゃ古いからかな。エンジンきれないように頑張りましょう。

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サービス精神

先週家族そろって山中温泉にいってきました。総員8名。孫の世話係もんだったけど、孫の父親が迎えにというわけで車で来たので、久しぶりの孫は父親にじゃれ付いていてようやく私の手から離れた。やれやれ。

その後妹としゃべっていたのだが、実に面白い話をしてくれた。

妹のダンナは亡くなってもう4年くらいか、息子は関西にいるので一人暮らしである。なくなったダンナは健康食品というか、製薬会社を起業、それなりにうまくいって妹は取締役として会社で頑張っている。なくなったダンナ生存中はダンナ贔屓のクラブには二人でよくいったとのこと。そのクラブにたまに遊びにいくらしい。そのクラブはまあ自営の社長とか、会社でだったら部長以上ぐらいの人が出入りするクラブであったとか。ママは若い時は美しかったらしい、いまや残りの色香という程度か。そんなクラブの贔屓のお客さんたち、いまや病気で臥せっている、なくなってしまった、呆けたなんていう有様らしい。次の世代の社長とか部長はもっと若いママの店にいくそうな。

今や店も暇である。件のママ、それなりに訪ねてくる年めしたお客だけでは閑でもあるし、エネルギーもあまる。国民年金はかけてきたなれど、そんな年金だけではこころもとないし、なにもしないのは気もめいる。もともと男も国もあてにはしない生き方をしてきた人。聞いて驚いた。ちゃんと講習を三ヶ月受けて介護ヘルパーの資格をとったとのこと。そして日中介護に出かけているんだとか。

もともとサービス業のプロ、介護される年寄りが可愛いと感じるとか。にっこり元気ですか?と声をかけるのも上手で、是非きて欲しいという声がひきもきらずとか。日中そんな仕事をしながら、夜になれば少なくなったとはいえ、のこんの色香をふりまきながらのママ業であるんだと。

どっちもサービス業ねと達観。誰かにすがりついて生きていくなんて考えもしない、潔く、しかも即実行である。誰がどうだからとか、政府があほだからとかなどの理屈の前に自分でできることは即実行というこのあっけらかんとした生き方、すごいよねと妹と話し合う。

社長であった、あるいは部長であった人の奥さんてダンナがどうにかするべき、どうにかしてくれて当たり前と考えている人がほとんど。女としてどっちが上だろうと私達姉妹は話しに盛り上がったのでした。

国民年金でどうにかできないならば、できることをまずはやってみよう。文句言う前に自分のできることは自分の責任で。

女の出世街道はよい男を捕まえて、なるべくその男に寄生してという生き方が言葉は違っても良しとされているむきもあるかもしれない。さっぱりと自分で頑張って生きていく、しかもそれを楽しそうに。サービス精神の権化かも。

楽しい話であった。

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買い物における情と理

我が家は長い間商売を営んでいる。呉服屋から始まった。呉服なんてのは高額商品であるし、一人で決めかねるものであったから、家族が揃っている夜に車に商品を積んでいってその家の座敷で広げて見せるものであった。来て欲しいという固定客さん相手の商売であった。向こうは商品知識はあんまりなく、またすでに着物は一般的に着るというものではなくなっていたので、どんな時にどんな組み合わせで着て、着物の格をあわせるなどということなどを説明しつつ、さてこの家では誰に決定権があるのか、あるいはどれくらいの値段のものを望んでいらっしゃるか、家族の話し振りからじっくりと決めていくという実に鷹揚なものであった。

お得意さん相手というのは、言ってみるなら、あの家ならばというお互いの信頼関係での商売であって、まかせておけばそれなりのものが揃えられるし、またまかせて戴ければきっと満足のいく恥のかかない設えになりますのどっちかというとお互い性善説による信頼の中での商売であった。商売の要諦は情にあるというものではなかったか。地縁、血縁といえばまるでひところの選挙みたいだけど、お互い信頼を裏切らないという表には出ない決意みたいなものが一番大事であった。

商品の良さ、中味で勝負ということもあるけど、それよりもあの人だから、あの店だからが決め手であったと思う。長い年月をかけて信頼関係を築く、そのために普段からの心配りは大事なものであった。そこの家の親戚関係から、何が好きか、誕生日は、学校はとか、今思えば個人情報に抵触せんばっかりのきめ細やかな心配りが商売で一番大事と思っていた。人と人の繋がりが商売のネットワークだったものでした。

息子の冷蔵庫が壊れて買い換えた。あそこの店であの販売員でなんて思ってもいない。ネットで検索、性能、値段、買った人の評価、それらを調べたあげくに大型の家電店にでかけ、当然値段をしらべるのは一店だけではない。こまかにチエックしている。

車を買ったときもそう、保険なんてインターネットで加入である。あげくにポイントサービスもこまかにチエック、サービスも充実させている感じ。

こんな買い方は商売における理でないか。まことに合理的といえば合理的、文句のつけるところはない。そういう買い物の仕方が楽しいのだそうである。

若い人の合理的な買い物の仕方。理にかっているのだろうけど、結局相手を信じていないということじゃないのか。売っている人を、店を信じてはいない、商品そのものに直接価値を見出すというものかもしれない。

こんな買い方をする息子に付き合ったことのある主人、あんなものばっかりがでてきたら日本の経済は暗い、相手の余裕を少しも認めていないんだからと言い、二度と一緒に買い物に行かないと言っている。

今や郊外型の大型専門店、それは商品量の圧倒的な強みで商品のそのものの価値をむき出しにみせているのであり、それが売りである。主人今や昔の商売ではとてもやっていけない。情に訴えたというか、商品の付加価値を見せてゆっくりの信頼関係を築いた商売のやりかたしか知らないものは、今では時代で通じないと慨嘆する。

商売で人間関係をじっくりと築き、それが商売の秘訣であったのはもう過去の苔むしたやりかたでしかないのかもしれない。

息子の買い物の仕方を見ていると、私たちは退場したほうがいいのだろうと思ってしまう。

商売にはもう情なんていらないのだろうかな。

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セーフテーネット

、結婚した夫婦でも親の援助を受けている人が60%にもなるとの調査発表が。50代にもなっても援助を受けている人もいるとか。それがセーフテーネットになっているとのことであった。

春受験シーズン、新しく学校にすすむ人、新社会人になる人、旅立つ季節である。知り合いの人の孫、大学生にと高校生にとそれぞれ希望の学校に入ったと報告。「良かったね~、ところでお祝いどれだけにした」「保険かけてきていたので、それから65万円おりてくいるから、それに35万円足して100万円にした」「ひょえ~すごい額やね。すごいおばあちゃんやね~」と賛嘆。心がけのいい人なので、生まれた時から孫に保険を掛けてきたとのこと。外孫にもそうしてあげたとのこと。若い人おお助かりで感謝してるでしょう。

田舎では昔はみんな家族は同居、みんなして家を守り立てる、できるものが順番に面倒をみるというのは普通の感覚であった。なにしろすでにあった先祖からの住まいである、家賃払ってきたわけではなくローン払ってきたわけでもない。ただしその家の維持管理は今時のハウスメーカーの建てる家よりもお金はかかっているけど、それは本当に世代をこえての計画であり、辛抱の積算であったもの。何世代も一緒に暮らせば、なにやかや問題はあろうけど、生活費の効率からいえばそれはなかなかよいものであった。

だから年よりは孫にすごくお金を上げられるのである。なにしろ年寄り本人はそんなにお金を使うわけではないので、わずかの年金でも溜まるのである。親孝行な子供は、自分のために使って、楽しみのために使って、とはいうけれど、溜めることが上手な人って、使うことが上手ではないことが多い。使うことに罪悪感があって、とても使えない。孫にというわけで若いものを助けることになる。生活の毎日を助けるというものでもない。なんかセーフテーネットなんていうと、若い人があたかも前の世代に寄生してようやく息をしてますなんて言う風に聞こえなくもないけど、そんなセーフテーネットなんてものではなく、昔からの習慣みたいなものである。

消費は経済においては血管みたいなもの、どんどん流れないと栄養がいきわたらない。年寄りがお金を持っていて、自分のためにそんなに使わなくてもいい人は、おおいに孫にと称してお金を実際の生活の中に流すのも悪くはないと思う。

ためもためたり59億円!なんて話もあった。昔のすごい旧家などの話だと、いわゆるノーベルオビリテーというのか、公共の為にとんでもないお金を使ったという話はよくある。普通の家の普通の人、公共のためになんか考えもつかないのなら、孫のためにお金を吐き出すのもいいんじゃないのと思う。もっともそれをあてにしてぐらぐらしている若いものなんていうのは困るけれど、今の若い人、しゅとして40代は給料もあがらないし、ローンもしくは家賃を払っているし、子供の教育費にアップアップだし、なにしろバブル以前の成功体験もしてないし、おおいに気の毒というもの。

ある人は多いにどこにでもお金を使って下さい。経済の活性のためになどといえば顰蹙だろうか。

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春の訪れ

ネットで知り合ったかたから自分で作られたという「いかなごのくぎ煮」が送られてきた。男の方であるけど家では家族のための食事担当はそのかたであるとのこと、さすがに毎日食事を作っていらしゃるからか上手にできている。ざらめと醤油で作るのだとか、多分水あめもはいっているのだろう。上手にできていて、我が主人、うまいうまいとじゃんじゃん食べている。

いかなごは瀬戸内海に春になったらたくさんとれるらしい。神戸のかたであるけど、砂糖と醤油の甘いにおいは春の到来を告げる神戸の名物だとのことであった。

神戸は海の町だもんね、春の到来は海からくるんだね~と感心している。富山湾での春の到来は、しろえび、ほたるいかなどかな、魚はあまりに色々の種類あるので、どうも春の到来を知ったなどは、むしろ山菜にあるような気がする。食べ物で春の到来を知るのはなんとも楽しい。冬は冬でおいしいものがいっぱいあるのに、さらに春になるとと食べる話には目もなく、どれどれになる。

さて実際には春の到来は、庭の雪釣りをはずすところから、暖冬であったので雪つりはただ風景であったはずなのに、私がやった雪釣りでもないのにひっくりかえってしまった木が一本あった。やはり雪の力は偉大か、3年前の大雪に懲りて、庭には雪囲いを全部していたのだけれど、これを全部はずすと途端に明るくなったのはいいけど、春の陽光ではどうも窓ガラスの汚れが目立つ。下と上数えてみると長戸が38枚、掃除することを思うとうんざり。今じゃこんな建物の建て方は建築基準法違反じゃないのか、春になると陽光の中、汚れが目立つ。春の訪れは掃除、まったく情緒もない。春になると掃除、すると家の大きさが一気に広がったように感じる。

前の世代が建てた家は商売をするという観点から建てられていて、掃除、普段の手入れなど、人手は充分にあり、みんなで維持してきた。今や私に維持の順番がまわり、春の訪れは春の食彩という楽しいものではなく、窓ガラスをふいて、カーテンを洗濯、まったく掃除の季節。庭には雪はないけど、少しは掃除しましょう、

主婦って春のおとずれを楽しんでいるなんていうゆったりした気持ちになるよりも、とりあえず掃除、さらに冬の間に傷んだところのチエックとそのメンテナンス、ガンバリズムの春の到来である。

ゆっくりと頑張りましょう、と自分に言い聞かせつつ、春のおとずれを楽しみましょう。

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まだできる もうできない

アスリートのかたのまだできる、もうできないの決心は、本人の人生観、美学がもとになっているからそれは本人次第である。

まだまだできる、こんな自信にあふれていても、サラリーマンならば定年なんてあって否応なしにストップがかかる。第二の人生も結構長いので、生きていく目標というか、価値観を再構築する必要もあり、強制的な幕切れもあって考える羽目になることは必定。上手に着地されて、非常に楽しそうに生き生きと過ごしていらっしゃる人をみると、こっちまで元気になるし、老いを楽しんでいらっしゃる人は人生の先達、是非学びたいと思う。

自己営業だったら定年はない、事実自己営業には定年がないのでいつまでも働けるということが前提になって、国民年金などが非常に少なく、さらに自己営業は次の世代にその商売を譲る、同居している人も多いなんていうわけで、国民年金は自分が掛けてきただけ、基礎年金だけである。こんな思いから始まった年金であるけれど、実際は小規模の自己営業は基盤が弱いだけでなく、年をとって年金世代になっても基礎年金だけで、年をとってからの生活の基盤はものすごく弱い。私の住んでいる町内はいわゆる小さな商店街であった。ご多分にもれず商店街は崩壊してしまった。その家族の人たち、零細な商売はやめて勤めに出たものであるが、中年になっての中途採用、何ができるというわけでもない、資格なども無い状態で勤めにでざるを得なかった。ひっそりした町内である。みんな順番に年金世代になった。零細な商売を親から受け継ぎ、それなりに苦労して、年金世代、さらにひっそりである。こんなの本人の努力不足だったの?

商売やさんの次の世代、親がひどかったからでしょうね、何人も介護方向にすすんでいる、これも時代にそのまんまのった感じでどうかなと思うのだけれど、人の人生って運だけだったのかと思う。

私は前の世代がやっていた商売はいずれ特殊な商売になってしまう、民族衣装にしか認知されなくなると思っていたので、それを追求するよりもと方向転換、商売のやりかた、感は鍛えられていたので、どうにか細々とでも「続けてきた。今やどこで「まだやれる もうやれない」を決心するかの問題である。商売なんてどうでも損益分岐点の問題があるから、やってようと思っていても無理、ストップにはなるのだけれど、第二の価値観を自分で作れるかな、これがなかなか決心をできない原因になっている。

第二の価値観、ずっと前からわかっていたこと、色々な人を参考にする、本を読み、先人の知恵に学ぶ、仕事だけではない趣味というか行き方を一つは重ねておく、ちゃくちゃくと予定してきたと思うのだけれど、どこで決心するかなかなか思い切れない。零細な商売であることは充分承知していて、会社組織にはしておいて年金もそれなりに掛けてきた。もちろん足りないと思うので、個人年金もいろんな形で掛けてきた。老いを迎え撃つつもりは勿論してきたと思うのだけれど、さてどこで老いのとばくち?
なかなか思い切れない。しばらくはずるずるとすすむしかない。なんだか何にもならない準備だけしかしてこなかったような気がする。

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驚いたこと

あるかたの愛車が割合故障するという話、それは日本車ではなくきっと形、色が気にいってらっしゃるのだろう。5年でリコール3回、修理代として60万円近くかかったとのこと、またしても故障、どうしようかと迷ったけれど、やはり同じ車種に乗り換えることにしたという話であった。よほど気にいってらっしゃるのだろう。5万キロくらいしか走っていないとのことだった。

先日大阪にいき、タクシーに乗った。えらい人懐こいような運転手だったので、先日来の車の話もあったので聞いてみた。「このタクシーって随分きれいに維持されていますけど、どれくらい走っていますか?」「静かでしょう。でももう45万キロ走ってますよ。」「45万キロ!一体何年で?」「5年です」「ひょえ~、45万キロも車って持つんですか?」「機械ですさかいに、水と、オイルとエレメントをきちんとしてりゃ、なんぼでも持ちます。タイヤは消耗品やね。」「うちの会社はまだええほうです。90万キロ走ってる会社もありまっせ。もう一年、大体60万キロ走らせっていわれてます。もう一年あまりでそうなります。その間にモデルチェンジは一回でしたわ。」

車って50万キロも走れるなんて聞いたこともなかった。なんとなく10万キロも走ると故障が多くなって修理代がかさむので乗り換えたほうが利口、誰が言ったのかはわからないけれど、私のまわりではそんな話が常識みたいに言われていた。友達もそうだったし、主人もそうだと思っているらしかった。私の車は10年もたっていて、11万キロ走っている。まだ乗り換えないのかと車やさんにまで笑われてしまった。息子の車は18万キロ走っている。行けるところまでと本人は何かに挑戦したように言っているけど、いい加減に乗り換えたほうがいいのではといい暮らしていた。でも調子はすこぶるいいのだという話。

私なんて一年間に一万キロぐらいしか走らないので、50万キロなんていうと50年!一生に一台ほどしかいらないのでは!まあ外から傷んでそれは無理ではあろうけど、また部品もなかろうから無理ではあろうけど、頑張れば随分もつんだ。

日本車の性能ってすごいんですね。性能もいいし、頑丈でもつんだね。すばらしい!でもそんな宣伝の仕方ってあんまりないような。春になると、モデルチェンジの話で使い勝手、デザインなどをすてきなモデルを起用して宣伝している。頑丈です。長い間故障もしません。そんな宣伝の仕方ってあんまりない。性能を追求しながら、一方で売らなきゃならない、あんまり長い間乗り換えないと車売れませんものね。形を追求した宣伝、性能を追及しながら、実は乗り換えてもらわなきゃならないので、技術の結晶って宣伝しないんだね。

地球温暖化で二酸化炭素を一日一キログラム減らそうと一方ではいいながら、性能よくなって炭酸ガスの出る量を減らした車といいながら、乗り換え推進。二律背反なんだね。

タクシーにのって運転手に話聞いて驚いた。根拠もないのになんとなく昔からの性能のまんまのことを思って買い替えなんて思っていたけど、じつはとんでもない間違い。ほかのことでも随分あるかもしれない。

でも性能の宣伝をして欲しいと思う。消費は経済を潤滑に流す大事なものだろうけど、経済ばかりでもないだろうし、色々選択肢を広げるという意味で性能の宣伝を是非してほしいと思うし、それはものを作る人の励みにもなるのではと思う。

デザインよりなにより使い勝手と長くこたえる。素朴な願いです。

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ゆでたまご

我が亭主ゆでたまごが好物。中でも白味がすきなんだと。黄身を食べないかなどということもある。ゆでたまごが好物なんて、育った時代と家がわかりますな。私達の子供の時代、卵は貴重品、病気見舞いに尾長鳥の絵だろうか、表にそんな絵が描いてあって中に米殻をつめてうやうやしく見舞いに持ち歩いたこともあった。

卵は物価の優等生、今や卵ほど安上がるものはない。そして料理も簡単。小学生の食事風景のアンケートでは、朝食ではパンに目玉焼が圧倒的であったそうな。とりあえず卵であれば、動物性蛋白質もありそうだし、そこにサラダ菜でもつけておけばオーケーかな、こんな朝の忙しさがありあり。

ゆで卵はちょっとしたハレの料理、遠足にはみんなゆで卵がはいっていた。考えてみればもそもそするし、味はしないし、そんなに上等なおかずではないのに、なぜか遠足といえばゆで卵であった。晴れがましい嬉しい遠足の思い出に色濃くついている。中学校の折京都、奈良方面の修学旅行であった。中学生には面白いとも思えない古刹めぐりに、はでやかな思い出は宝塚観劇、たぶんみんな長距離の列車は初めてであった。わくわく嬉しかった。当然ゆでたまご。ところがゆで卵は悪くなりやすいものなんですね。出かける前に、ゆで卵はその日のうちに必ず食べるようにとお達し。初めての長い旅行、たしかおばさんなんかから餞別までもらったような。お土産買ってこなきゃと頑張っていたもんね。母親はいつもよりもたくさんゆで卵をいれてくれたような気がする。大事にとっておいたゆで卵、夜になって布団の中にはいって思い出した。どうしよう、ゆで卵まだ持ってる。当日に食べるように言われていたんだ。もそもそ起き出して、こっそり荷物の中からゆで卵を出す。暗闇の中でゆで卵をむいて、飲み込んだ。喉につかえて味もなし。ところがそんな人がまだいました。遠いところへの遠足、親が張り切って持たせてくれたゆで卵、いつもよりも数が多くて、勿体無くて食べていなかったの、そして夜中にもそもそと食べた人。今思い出しても笑える。

こんな時代の生まれからか、ダンナのゆで卵への執着、おかしいしほろ苦い感じがします。俺が死んだらゆで卵を山盛りに、死なないさきに山盛り食べて下さい。しかし貧乏くさいね。そんなものを所望されても困りますなんてのは思い出しもしない。

子供時代の遠足のおやつ、親が作った凍り餅、餅をついて細くきって干し、それをじっくりと炭火でやく、あるいは上げる、こんなおやつは買ったものではなかったので恥ずかしかったけれど、今や、それは一番手がかかっていて、かつ高くつく。持たせるどころではない。

ゆで卵、貧しい、あるいは忙しくて手をかけられなかった親の有様の象徴みたいなものだけど、下の孫、なんと卵アレルギーである。卵は直接だけでなく、卵を使用してあるお菓子なども駄目である。じいさんが卵食べ過ぎたからか?それは関係ないけど、物価の優等生である卵が好きなんて恥ずかしくて言い出せない時代である。

でも卵を見舞いに持っていった時代、栄養不良の人が多く、卵食べただけで元気が出たってこともあったんだろうね。母親が虫垂炎で入院した時に、見舞いに卵の箱をいくつももらって、父親始末に困り、ゆで卵をやまほどこしらえたことがあった。母親の虫垂炎はゆでたまごの思い出にばけている。今朝もご機嫌にゆで卵を食べていたダンナ、なんとも簡単である。

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イージス艦と漁船が衝突した先日の事故、漁船の親子には気の毒で痛ましい。艦長が被害者宅にお詫びにでかけられた。涙で陳謝されたとのこと。親族の方も涙をだして陳謝されたので、満足というわけではなかろうが、気持ちを治められたとのことであった。人間的な対応というべきなのかもしれない。でもいささか違和感を覚えたのは、私がへそ曲がりだからか。

イージス艦というのは日本に5艦しかない、何だかものすごい艦であろう。ミサイルを打ち落とすこともできるとかいう、その艦長というのは海上自衛官であろう。つまりは兵隊さんでないの。専守防衛といっているけど、自衛隊といっているけど、他国からみれば軍隊であろう。軍人さんは一端ことがおきれば、部下の死骸をのりこえて、指揮をするかたではないの。今まで息をしていた人が一瞬に息をしなくなる、そんな危険性一杯のものが軍隊であろう。あくまでも沈着に、落ち着き、指揮をとり、国民の安全に寄与されるかたが自衛隊では。沈着で胆のすわった代表が軍人さんだと思っていた。人間的な温かみや、人情に左右される感情の豊かな人は活躍の場は、軍隊ではなく、もっとほかの場所で働く場があるのではなかろうかな。

艦長はすごく人間性の豊かな人なんだろうと思う。事故の責任者として詫びられたのであろうと思うけど、涙をだして感情豊かな人にあんなものすごい艦の全責任なんて、ちょっと違うのではないのとちょっと違和感を持ったのでした。

昔子供同士喧嘩して片一方が泣くと、それ以上追求してはいけないと強く言われたものである。それ以上に追い詰めるものではない、泣くことで負けを相手が認めているのだからと。だから歯を食いしばっても、泣いてはいけないと頑張ったものである。泣くというのは非常にみっともないと教育されてきた。女の子はまだしも泣いてもいいけど、男の子はひたすら、泣くな!であった。

今や総理でも艦長でも簡単に泣く時代である。それが人間らしいと考えていらっしゃるのか、それはわからない。泣けばみんなが納得するからかもしれない。

涙の値も薄まったように感じる。テレビの中でピーピー泣く人をみると、なんだか安っぽくて気分が悪い。感受性の豊かな、心やさしい人が受け入れられる時代である。本当にそれって感受性が豊かなのですか?感情の起伏がなんの制御もなくて、ただただだだもれ、なんだかみんなが子供っぽくなっているという表れではないかな。

人間らしい、このごろはただの子供っぽいと変わらないと思う私は天邪鬼なのかもしれない。もっと複雑な感情を表わせるような大人っていないのかな。

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主役

本日は雛の節句、店の子に「お雛様だした?」と聞けば「恥ずかしいくらいのお雛さまだけど出してますよ。ちらし寿司も当然作ります」とのこと。とっても優しい話を聞きました。

彼女は42歳、独身、結婚暦なしです。とってもいい人なんだけど、ご縁がないといったほうがいいかも。人生において主役をはったことってあんまりなさそうな人です。でも保育園の時、3歳か4歳か、その時にお雛さまの役を射止めたことがあるとのこと。もっともおんなじ年の女の子3人しないなくて、競争率が低かったとのことであった。その後学芸会などは、みんなその他の役ばかり、主役なんてやったことはないとのこと。

あんまり嬉しくてその時に着た一つ身のホンモスのピンクの着物の柄も覚えているし、父親も母親も見にきてくれたのだけれど、その時に父親が着ていたアノラックの色も襟についていたアクリルの偽毛のふかふかした温かさも思い出せるとのことであった。そしてその日は、保育所では父兄に食事を出すということで家から大皿を持参し、みんなでカレーライスを食べたこと、みんな鮮やかに思い出せるとのことであった。

こんな嬉しい思い出があるので、お雛様、これはお姉さんのお下がりで、決して立派なんていうものではないとのこと、それでもお雛様に会うたびに、主役をはって嬉しく、晴れがましかった思いでがよみがえり、心嬉しい気持ちになるとのことであった。

この子は本当に内気で、姉兄に対してコンプレックスが強く、自信のなさげな子であった。でもとても心優しく、私を15年も助けてくれています。多いに年が離れているし、立場が違うので、話やすいらしく、私にはとても気を許して色々と自分を見せてくれるのです。

保育園とか幼稚園とか、多分活発で目立つ子が主役を射止めるのでしょう。でもいささか内気な子には主役は荷が重い?そんなことはないと思います。小さな時に偶然射止めた主役の座の思い出を、今も心に温めて 晴れがましさを内にひっそりためている。なんていじらしい!と思ってしまった。

先日妹が遊びに来た折、彼女は私の孫のめいと同じ年、幼稚園の卒業式に在園生を代表して送別の言葉を述べたことがある、そういえば私が文言を考えてさかんに練習させたことがあったなと思い出す、こんなのは親に多少の力あったので選ばれたんだろうと私は思っているけど、やはりあの晴れがましさを心に留めている、さて孫は多分みんなで呼びかけなんてやるのだろうと思う。

大人とか先生は子供がそんな思い出をいつまでも心に秘めて、生きていく杖にしていると考えているだろうか?いつでも主役を晴れそうな目立つ子は、多分選んでも失敗はなくそこそこにやってくれるだろうなんて選ぶことが多いのじゃないだろうか、偶然、主役を晴れた子がどんなに嬉しく、何十年もほとほとする思い出を暖めているなんてことに気がついているのかな。

考えてみれば人生において、主役をはるなんてことは一般的にはあんまりない。みんな自分の分を弁えて、まあこんなものかと納得して、そこそこ自分の人生を歩いていく。そこにはとくに不満があるわけでもない。身の丈にあった淡々とした人生である。

偶然に店の子の話を聞いて、主役をはった話には二人して笑ったのだけれど、子供を指導する先生や大人の人が、ただただ偶然に決めたことがすごく楽しいことになって自分の自信につなっがて居る話、心楽しい話であった。大人の人に子供を相手にするときには、充分考えてあげてほしいなとも思うのです。

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朋あり遠方より来る

朋あり遠方より来る 亦楽しからずや

こんな時代の友達の到来はもっぱら歩きであろうし、本当に嬉しかったに違いない。今もし遠方より来るということであれば、前々から連絡おこたりなく計画は練られて会った時にはもう計画の遂行のみがあるみたいなもので、古人が考えたほどの浮き立つ気持ちなんてないだろう。でも実際に会うのなら、それはまた時間を越えて語り合うこと、会った喜びは大きい。

インターネット時代の友?知り合いのきっかけは趣味の世界のブログなんていうものを通じて爆発的に増えている。MIXIなんかでは、繋がっている人の数、繋がっている先がわかる仕組みである。数を競うが如く、何十人、どうかすると何百人なんかの数を誇っている人も珍しくない。しかも自分の繋がっているブログの最新記事の更新状況をしらせてくれるから、たくさんの人と繋がっている人なんてどうしているのかなと思ってしまう。

記事に対してほとんど反射神経である。たくさんの記事に目を通そうとすると大変、そもそもほとんどが文章の達人でもなければ、中身を掘り下げてじっくりと書かれたというものでもない。たまにそのかたの専門領域をじっくり何十回にもわけて、ほとんど論文のように掘り下げて書いてあるものもあるが、反射神経のようなただの個人のよしなしごとの中に埋没してしまう。勿体ないことである。非常に中味濃く、何度も反芻してもなかなかわからない高度な内容のもの、自分のデータのなかに取り込んで、後々まで勉強を続けるということはできなくもないけど、毎日の更新で、ただただ流されていくのみである。

友の数は増えた?知りたい情報を普通のブログの中でひらえるか?

これは一般的なブログの世界であるけど、専門分野の論文もじつは厖大な数が発表されていて、しかもそれはますます細分化し、ますます専門化し、それらを咀嚼できるのは本当にごくせまい世界のことになっているらしい。つまりは発表のための発表になっているらしい。

簡単にブログは作れる。誰でもどこでも、何でもの世界、道徳的によほどおかしくなければ規制はない。何を発信しているというわけでもない世界に遅れてはいけない、混じっていなけりゃ、時代においていかれそうななんとなしの不安感でとりあえず始めてみる。中味なんてまったくなくてもいい。全部私の趣味、私の世界と豪語すりゃ、誰も何もいえない。厖大な数のブログという世界。

その中から珠玉のものが生まれる可能性はないではない。だけれどなんだか格好だけはITなどの甘い言葉に包まれて、厖大な無駄の再生産に日夜邁進しているのかもと思う。

反射神経も基礎体力があれば、立派な反射であろうけど、ただの相手に対しての反射であるなら、自分の投げたボールの貧しさが自分にかえってくるだけである。

ブログって自分のつぶやきをのせながら、一体何なのだと思う。

生きてある友との語らい、語れる友を求めて右往左往。昔の人の、また楽しからずや、の世界を心底うらやましいと思う。

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感情表現

毎日さまざまな事件がおきている。被害者のかたがテレビにしょうっちゅう映っている。事件のあとで、とくに加害者と本人がいっている事件などは、とくに感情もあらわに、わ~わ~泣きじゃくる例が多い。気の毒とも思うが、がいして被害者はたしかに被害者なのだろうが、まったくの落ち度はなかったのかと思うと、そうとばかりはいえないのではなかろうかと思うことも多い。気の毒と思いながら、申し訳ないけど気持ちがさめてしまって、急いでテレビを消してしまうことも多い。

感情表現といえば、昔よんだ芥川龍之介の小品「手巾」を思い出す。ハンカチとルビがふってなかっただろうか。先生のもとに教え子の母親が訪ねてくる。息子が戦死したので世話になった先生に報告と挨拶にきたという話であった。その婦人はきちんと着物を着付け、顔にはうっすらと微笑を浮かべている。そして息子の戦死の報告をするのである。机にあったものがふと落ち、先生はそれを拾おうとして、たまたま顔を下にむけたところ、机の下で、婦人はかたくハンカチをにぎりしめ、その手がぶるぶるとふるえていた。顔は微笑をうかべながら、手にはかたく握り締められたハンカチ。婦人は顔は笑いながら、全身で泣いていたという話であった。

人に悲しい不快な話を聞かせるのだからと礼儀として顔には微笑がうかべながら、見えぬ部分で全身で泣き、悲しみをこらえているという話は、芥川が小説にするほどの話であるから、その時代でも珍しかったものであろう。抑制された悲しみは、かえって深い悲しみ、慟哭として読者に伝わったものである。自分の息子の死という耐えられぬ悲しみを、抑制された感情表現でありながら、なんとも深い慟哭として私には伝わってきた。

こんな武士道の死骸みたいなものは人間的とはいえない。素直に感情を表現するのが人間らしい。気持ちを発散させるほうがいい。
そうだろうか。今慎みもなく泣きじゃくる人たち、同感はたしかにするんだけど、なにか浅いものを感じて辟易してしまう。ひどい時には相手に対しての恫喝にしかみえない場合もある。

抑制された感情表現、それは一時代前の日本的感性であった。一見へらへらしている、にやにやしているにしか見えない顔の裏にどれだけの深い感情の交錯があったものかを、察知する能力もみなひとしく持っていたものである。今平板なわかりやすい表現しか見えず、それとともに人の感情を人情の機微を読み取る能力もすごく鈍磨してきていると思う。

そんな時代だからか、被害者は泣きじゃくる、あるいは相手が悪いと言い募る。お互い思いやる余力がないものかと気持ちが寒くなる。

ほんの少し前には、誰にならうでもなく、皆当たり前に持っていた感性、これこそが日本人的感性であり、誇っていいものだと思うのだけれど、時代とともに感情まで摩滅してしまって、なんとも味気ない。
こんな感情の発露まで、グローバル化なんてもうともいいたくないものだ。

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楽しめる理由

前に消費の分野では楽しめない理由を書いてみた。世の中、消費とお金が優先されていて、そんな分野では楽しめず、さらに日々の仕事は、小さな商売をやっているから、売り上げ、支払い、回転率、さまざまがあって、なんぼ馴れているといってもこんなざわざわした仕事に気持ちを集中すれば、もっとよい結果を迎えられたかもしれないけど、あまりにも心が干からびる。ぎすぎすした気持ち、ざらざらした心持だけの日常では耐えられない。

私の楽しめるもの、それは自分を長い間掘り続けてきた趣味としてのお茶である。お茶ではどれだけという評価はまったくない。育てて下さった先生とは、琴線にふれる話をいつもして、その後塵を拝しながら、ひたすら続きと歩いてきたもの。それを人に教えたいとも思わないし、人によっては日本の麗しい伝統を担っていると言っている人もいるけど、私にとっては伝統でもなく、自分の気持ちをのせる、気持ちを放つ手段であり、勉強の手段であり、目標でもある。

自分の美意識を鍛えるなんてできるわけもなかったけど、工芸のものを見る視点を自分で設定してきたし、美術館でものを見る立脚点もあくまでも細々とやってきたお茶がもととなっている。

自分の甲斐性なんてさっぱりないけど、幾分の購ったものは、自分の納得の中で購ったものであり、まったく無茶としかいいようがないけど、自分とすればすっきり気持ちがいい。大したものを購えない自分の言い訳であるけど、あくまでも自分の表現である。

評価は自分の中にあり、他人の思惑とは無縁。
すると楽しめると思うのです。

そしてこんな楽しみがあるから、結構きったはったの現実に立ち向かえる気持ちを奮い立たせることができると思うのです。

今となれば、主人もそんな確固とした楽しみを有している私をよかったなと言ってくれるようになった。男の人はこんな楽しみを持っている人は少ないかもしれない。会社で出世する、売り上げをあげる、人から羨まれる、みんなみんな素敵なことかもしれないけど、自分の中で、評価とは関係のない楽しめるものを持った幸せを思う。

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楽しめない理由

我が町内の婦人会の新年会があった。町内のあるかたの娘さんの嫁ぎ先、焼き肉屋さん。もと肉やさんだったのだけれど、焼き肉中心の大きなレストランに。貸し座敷がいくつもあって、バスで送り迎えも。まことに結構ということで今年はここに決定。

大きな敷地での大きなレストラン、きれいにしてあってみんな大喜び。もちろんそうなんだけど、長い間商売に携わってきたものにとっては、大きな建物のランニングコストとか建物の償却とか、税金とか大変だろうとまずは思ってしまう。こんな大きな建物では客の回転率はどうなんだろうと思ってしまって、純粋に楽しめない。とくに飲食業界の冷え込みはひどい。普通の人によれば、おいしいものを提供できれば客はついてくる。それって正論なんだけど、田舎ではそんなものすごい料理人をやとえるほどの売り上げができるはずもない。煎じ詰めれば人口の数ではないのになりがち。町の規模が一万人、ほかの町からの集客をはかればと思うかもしれないけど、ほかの町にはまたほかにあるんですね。公の建物って原価償却という概念がないみたいである。それにもかかわらず、毎年のランニングコストもひねり出せないで、大赤字なんてのがよくある。

自分でやったものは、土地、建物、全部償却を考えなきゃならない。にもかかわらずその土地での売れる値段というのがあるわけです。

飲食業界にかかわらず、地方で商売を続けてきた身には、なにやかや中味の裏側がみえて、本当に楽しめない。都会の百貨店にはいれば、これがまた自分の商売のことが気になり、今の流行が気になるし、そんな大きなところとは関係ないんだけど、経済って案外根本では合っているんではと思う。

零細でも商売をしていると、どんな商売の人のところに入っても、そこの工夫が見えるし、それはとても参考にはなるのだけれど、大変ですね~の気持ちのほうが大きい。

大手はたとえば色々な工夫でのリストラなんてことはできるだろうけど、もともとの零細は常に目一杯の有様だから失敗の余地はない。

私の住んでいるところはもともと小さな商店街であった。今やほとんど商売は成り立ってない。商売替えするほど目端きいている人もいたけど、多くはずるずる後退。廃業したのはいいけど、中年になって仕事を探すのも大変という有様をみてきたので、なんとか頑張ってという状況。もともと将来性のない商売であったので、余力があるうちにほかに転業してきた。あんまりこだわってこなかったので功を奏したというべきか。

あらゆる失敗を本当にたくさん見てきたので、どんなところにいっても心からは楽しめない。因業な性格になってしまったものである。

単純においしいね、またかわったところに行きたいね、ご馳走様、そんな素直な消費者にはもうとも戻れない。消費の場では全然楽しめないのです。お金を使っても楽しくない、お金を使う場を探そうっと。

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つれづれ

いつだってつれづれなんだけど茶会に気持ち集中していてそれが終わると一種脱力、その後は振り返り、反省などミクシーにお茶をやってらっしゃるかたの知り合い多く、そちらであれやこれやと反省をかねて振り返っておりました。

こちら気にならないことはないんだけど、おかしなもので気持ちが充実しているというか、振り向くところがあると、ほかのことには気も回らず、書くというところにはいたりませんでした。これって本当のきまぐれ、やはりプロは素晴らしい。どんな事態になって書くことがわいてくる、そんな泉を持っていること、そして書ける、やはりプロには遠く及ばないことを実感。

最近読んだ本「あなたがこどもだったとき」河合隼男の対談集。著者の河合隼男さんはなくなられて大分たつので、随分前の話。子供だった時の思い出を語りながら、それが単なる思い出としてではなく、精神の分析をかねて現在の本人のありよう存在にどんな影響があったかを、対談を通しながら本人、対談者が次第に気がついていくといった内容。

子供の時の本人も意識してないような些細な経験が、子供では言葉にもできなかったことどもがいかにその本人のアイデンテテイに影響しているかという話の引き出し方はうまいと思うし、大変参考にもなった。

思い出せば恥ずかしさで隠れたくなること、不思議なことはそういえば自分にもある。今自分のことを書く勇気はないが、孫のありようを見て、子供だった時のことを現在の孫でちょっとみてみたいと思う。

孫は5歳。ひらかな、かたかなは読めて書けるものだから、たまに手紙がおくられてくる。ストレートに、おじいちゃんだいすき、またとやまにいってもいい。ヤマハのはっぴょうかいをみにきてね。おばあちゃんだいすきだよ。まあこんなもの、発表会の招待のつもりなのであろう。作為なんて全然ないのだろうけど、こんな手紙を受け取ったじいさん、ばあさんは、欣喜雀躍。なにを送ってやろうになる。作為がないのかな?多分作為はないのだろうけど、やはり遺伝子に組み込まれているというか、じいさん、ばあさんを喜ばせれば、どんな言い方をすれば自分に帰るものがあるか、こんなことは本人の作為とは別にもっと根源的に持っているのだろうと思う。ちょっといじわるかな。でもい純粋に嬉しく、次々、いらざるものをどんどん送っている半分迷惑なじいさん、ばあさんであります。

さてとりあえずお礼の電話。孫はいろいろ言うんだけれど、こっちは話がそうも続かない。しかたないから「お母さんに変わってくれる」「いいよ、お母さん、おばあちゃん変わってだって。え~、そこ私かたづけておくから、いいよ。」母親はなにかかたずけものをしていたのだろう、その片付け、私かわってやっておくから、だってさ。ひょえ~驚いた。ただただ子供だと思っている孫が、母親に片付け代わってあげるからだって、びっくりした。そんなに間に合ってとは思えないけど、本人は一人前のつもり。

母親に「親を思いやる良い子を持って幸せだね」という。親よりもできる子じゃないですか。

多分こんなこと大きくなれば記憶にもないことになるだろう。そして役にたつようになると、忙しいだの、私がやらなきゃならないの、などの文句も出ることであろう。でもこんな些細なことを覚えておけば、子供のやさしさは本人の身にあると信じられるし、なにか問題が起きた時には、こんな思い出を杖に頑張れるのではなかろうかと思う。

自分を飾りたい、身以上にとはちっとも思っていない小さな子供には、素敵な原石がうまっていると感じている。

こんな原石を親も子も大事にしてほしいと思っている。

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旅への誘い

しばらく旅にでていないな。ここでの旅は海外旅行ほどのちょっと日にちをかけた旅。一泊ぐらいの温泉行きはしょっちゅう。家族はみんな好きで、大きな風呂にはいるとか、だらだらするのは大好き。そんな旅ではなくてである。

海外旅行によくでかけていた頃は、暇なんてありそうにもないほど忙しく、今思うとよくぞ出かけていたと思うほどである。忙しい、暇なんてない、むしろ充実している日々であったと思うのに、むくむくと海外旅行に出かけたくなったものであった。そして出かけるまで、ばたばたと仕事をどうにか片付けて、みんなの顰蹙をかいながら、そしてみんなの協力を受けながら、どうにかでかける。飛行機が飛び立てば、開放感で爆酔したものであった。

忙しい、充実している日々なんだけれど、なんだかもっともっとという気持ちになって、どうしても出かけたくなった。

今や暇なんてどうにかはとれる、あんまりあたふたとしなくてもよい、顰蹙はあろうけど、主人ぐらいか、休暇の間は店の人に迷惑ではあろうけど、前よりも時間はとれるはず。それなのにそんなに海外旅行に行きたいとも思わないのですね。いささか年をとってくたびれたなんてことも勿論あろうけど、毎日が差し迫っているという感じがしないと、どうにも現状を変えたい意識なんて希薄になってしまったかも。

海外旅行にいくと、気持ちが解放されて好奇心が満足して、また新しいことにも迎えそうな気がする。新しいことに向おうとする気持ちを奮い立たせる、そんなことにも海外旅行は有効であった。

障害がなく、行こうと思えば行けなくもない。そうなるとたいして行きたくもない。天邪鬼といえばそうなんだけど、興味の方向が違ってきた。さらに新しく何かをとも思えなくなってしまった。

純粋に旅行を楽しむという気持ちで、行くのもよいかもしれない。そんな日を迎えられるようになったのだと考えよう。旅行のパンフレットみれば世界は広い。面白そうなところ、ことは一杯。暖かくなったらとせめて頭の中だけでも考えよう。

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暖のとりかた

地球温暖化の影響だろうか、比較的雪の少ない冬である。氷点下に下がって、長いつららがきらきらと輝くなんて景色もないし、朝子供が学校に行く時、積もった雪が凍って、その上をさくさく歩く、それをそらに乗るともいったし、すんずらとも言った。田んぼの中をつっきっていけるので、学校なんか近くなり楽しかったものだ。
そんな遊びもできないほどに凍らない。暖冬は生活上では有難いことなれど、ちと寂しい。

一日中暖房の効いたところにいて、まったくひ弱になったもの。暖房にあたりすぎて、肌乾燥、痒くて痒くてなどと本当にひ弱でもあり、年寄りくさいともいえる。

雪やこんこ、あられやこんこ、降っても降ってもなお降り止まぬ、犬は喜び、庭かけまわり、猫はコタツで丸くなる・・・・と歌ったこともあったけど、そういえば外を犬が歩いている風景に出会うことがない。飼い犬は家の中で飼われているらしいし、野良犬なんてのは今は見ることがない。

近所でも犬を飼っている家は多い。みな何かの犬種であって、大事な家族である。犬を飼うのは、もちろん家族の一員であろうが、人間の生活にうるおいをもたらすものとして、余裕のある家のように見える。家族の一員で、餌はもちろん、手厚い扱いをうけている動物も多い。

「貧乏の光景」という曽野綾子氏の本を読んだ。すさまじい貧乏の光景であるが、そのなかに「餌の与えられない犬」という章があり、なになにと読んでみれば、アフリカのある国、人間の食べるものも十分にない家庭に犬を飼っている、犬を飼うというのは余裕の産物と筆者も思い、餌は与えられるのか?と聞けば、人間でさえ十分に食べるものがない地方、犬とて自分のくいぶちはどこぞで調達してくるのは当たり前、餌もやらないのに、自分の所の犬って?と思えば、子供にとって、何一つおもちゃとてなく、犬は最高のおもちゃである、さらに子犬が産まれれば、その子犬を抱いて眠れば、毛布のかわりになるのであるとのこと。家族中で泥色の毛布一枚ぐらいしかなく、子供は地べたに寝ていたとのこと。犬は暖をとる毛布がわりであるとの話であった。

犬も人間の子もいっしょ、動物と人間の境がないような貧乏の光景が、えんえんと続いている。

我が家の近所の犬なんて、歩くのは人間を従えて散歩と称する歩きしかない。家の中の暖房の効いた部屋にねそべっている犬がほとんど。

電気毛布の効いたぬくぬくの布団に入るとき、日本に生まれて、そうして今の時代に生まれたのは、たんなる偶然であり、私の努力とはまったく無縁なることを思う。

今わが国では格差社会なんていっているけど、こんな格差なんてなにほどのことであろう。日本で食べられない人なんているか、頑張れば一応の生活はできるはず。

暖のとりかたでオイルが値上げされ、するとすぐに為政者の無為無策などと声高にいう風潮があるが、犬を暖房かわりにしている人なんているとも思えない。ぬっくぬくの部屋、布団、たぐいまれなる幸せとこれ以上は望むまいと思う。

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なれ

日常のことどもはなんと言うこともなくなれで大抵のことは済ましてしまう。食事の支度などはそれの最たるもの。家族の人数にあわせて、今日はメインに魚、肉、和風、中華風、洋風とおおまかなことを決めれば、それに従っての食事の支度。簡単とも難しいとも思ったこともない。淡々とした日常そのものであった。

気がつけば我が家の人数、ダンナと2人みたいなもののなってしまった。息子はいるが日曜日の夜に「元気でっせ、なにか用事あります?」多分それだけのことのために帰宅。日曜日の夜だけは我が家で食事、月曜日の朝食とせめてと弁当持たせるだけになってしまった。

ダンナは朝食だけはきっちり我が家で食べるのだけれど、昼食、夕食とも基本的には我が家では食べない。家に帰ってくると寛いだ気分になってしまって、もう一回仕事モードに入れないんだと。

するとですね、食事私一人になってしまった。味気なさを通り越してもう馴れました。舅が存命中はわずか二年前までですが、年寄りに何を作って、どうして食べてもらうかは結構大きい課題でした。だんだん食が細くなっていくし、好き嫌いは増える。時間はきっちり一定でなきゃというわけで、けっこうプレッシャーになってました。

舅がなくなり、プレッシャーからは解放されたけど、そのあとは実に味気ない食卓風景になってしまった。日曜日の夕食だけは気合いれて作るのだけれど、それが残ってしまって、それを順々にかたづけていくというなんとも間抜けな食事である。楽になったといえば楽である。だけれどもともと上手とはいえない食事の支度はさっぱり腕もあがらず、レパートリーも毎度お馴染みになりがち。食事の支度ってほとんど頭の体操、前日、前前日になにを食べたか、冷蔵庫の中身はとか、保存食品のチエック。使いまわしの食品でも目新しくの工夫とか、とにかく頭を使うものである。今や、その頭の使い方はそんなにしなくてもとなり、ちゃんと作ろうとしたときは、飽きそうではなき、日持ちしそうなんてことになって、頭はあんまり使わなくなってしまった。

毎日なにかしらの本を読んでいるが、段々頭をうんと使わなきゃというものが歯がたたなくなったような。知の巨人といわれる立花隆の「サイレンスミレニアム」という本を今読んでいるが、ちっともわからない、時間がやたらかかる。興味だけでぐんぐんいろんな本を読んでいたけれど、今や、「まいりました」の一歩手前。

こんなの料理をあまりしなくなって頭を使わなくなったと同等とは思わないけど、でもやはり頭って使っていないと退化していってますな。今更脳のシナプスが早く動いたり、ニュウロンがいささかでも増えるなんてことは私の場合、もうともないように思う。

じゃ今まで蓄積したものを使ってという話になりそうだけれど、これがまたどこぞへ行ってしまって蓄積したものなんてないのですね。

と悲観していても始まらないので、なれたことを、なれのままに、減らさないように頑張りましょうと、いささかくたびれた頭にいうて聞かせよう。

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性格

性格なんて生まれつきとそして育った環境で作られるものだろう。我が家は店をしていて、人の出入りが多かった。自宅での店なので、従業員の人も家族と一緒、子供が小さいときには、まわりにはやたらと大人がいたものである。その時分問屋が幅をきかせていたし、ほとんど連日のように問屋の番頭が来た。お客様はじっくり時間をかけての滞在。従業員もいわゆる店の人であったけれど、家族といっしょだった。

こんなどっちかというと、わやわやとしたエネルギーの満ち溢れた家に育った私の子供たち、とくに娘の場合、大人ばかりがいて圧迫感があったのだろう。どっちかというと気の小さい、自信のない娘であった。今ではその面影もなく笑えるのだけれど。大人が一杯いて圧迫感があっただけでなく、祖父母は大層孫を可愛がってくれて、むしろ猫かわいがり。店の人、問屋さんからはお嬢さん扱いを受けていたし、仕立て屋さんとか、染やさんとか、とにかくみんなからお嬢さん扱い、自分でなにかをやろうとしなくても、あるいは何かを欲しいなどと思うだけで、すぐに手にはいる状況であった。

これでは自分が何かをやったなどという達成感はなかっただろうし、何をやりたいということもなかったのかもしれない。今子供の時には、自信のない線の細い子であったねという。

年代を重ね、地金がでてきたこともあろうし、大病をした経験もあり、いまでは居直った強さを備えた娘である。昔のことを思うと自分がいとおしいし、笑えると言っている。

娘の子、孫は娘夫婦の長女、両親と弟の4人家族。核家族の育ちである。主に娘が育てている。これが娘もあきれるほどに、楽天的というか、疑いもなく環境になじむ子である。どこにいってもあっという間に友達になってしまうし、お年寄りにも疑いもなくなつくのである。さらに自分に自信があるというか、運動会とか何かの発表会なんかには、おじいちゃん見にきて。おばあちゃんも来てねといっつも誘う。走るのが速いわけでもなく、まだ5歳児なので、人にめだって何かができるわけでもない。でも自分が何かをやってるのを楽しんで、見て、見て、なのである。

娘いわく。自分が子供の時に、恥ずかしかったし、うまくいくとも思えなかったので、おじいちゃんやおばあちゃんに見にきてなどとはもうとも言えなかった。それどころか誰も来ないで、であったと。それなのに自分の娘のおおっぴらな自信にみちたあの態度、あきれるやら、うらやましいやらである。一体誰に似たものか。自分にないところで、実にいい性格だと喜んでいる。

思うに私の娘はまったく蝶よ花よのお嬢さん育ちであって、それが子供の自信にはまったくならなかったので、孫が娘にまったく似ていないというのは、育ち方の違いによるのではなかろうか。

孫は単純に親が育てている子供である。のびのびは娘夫婦の望むところ、まわりが先走ってなんでもしてくれる環境ではない。言ってみるなら、まだ子供であるからかもしれないが、怖いもの知らずなのだろう。周りを斟酌することがない。こんな育ち方は、また色んな場面に遭遇するようになれば、また色々考えることにもなるかもしれない。

全然似ていなさそうな娘と孫であるけど、案外育ち方の違いで、地金がでてくるようになればそれなりに似てくるようになるだろうと思っている。

それにしても小さいときは、育ち方、環境で性格がでてくるのは面白い。

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献血

成人式である。私らの世代は成人式って1月15日とぬぐいがたく思っているが、どうも15日に近ければなんでもよいらしい。

初々しい新成人がほとんどであろうが、毎年のことながら、ただ暴れて注目されたいのか、ただ単なるアホなのか、そういう人もいる。そういう人がいるのは、どうも公のお金でやってもらっている成人式のところに限るようだ。夕張みたいに破綻した自治体の成人式なんて、伝えるところによると、華やかな式をやるお金の出所がなく、新成人が寄付を募ったりして自前の成人式をやっているとのこと。みんな成人式を成功させたい、自分の故郷を自覚してと一生懸命である。そんなところの成人式は出席率もよいし、なによりも一つのことをやり遂げたとの充実感でいっぱいで暴れまわるなんていう、常識はずれをやらかしたり、注目を浴びたいとの子供じみた欲求を抱くことがないように思う。

じゃ自分たちで勝手にどうぞとやればいいのかというと、そうでもないだろう。夕張は市財政が破綻して、だれもかれも、自分におこることは人事ではなく、自治体が何かをしてくれる存在ではないという現実を突きつけられたから、みんな本来持っている力を出すべき、自分のこととして現状を認識した結果だろうと思う。ほかの自治体ではまだまだやってくれて当たり前という意識から抜け出せないのではないだろうか。

新成人に向って、二十歳の献血キャンペーンをやっている。若い元気な血を少しでも社会の役にたててもらいたいものだ。
献血は特に若い人からはやってもらえないとの危機意識があるとのことである。私の献血暦は24回で終わった。降圧剤をのんでいるので、やりたいと思っても断られる始末。献血にいけば、自分の健康状況がわかるし、GOTとはGPTなどの言葉の意味もわかったし、便利であった。
今の若い人が献血を嫌うのは、痛いからとか、怖いからとかの理由が一番と聞いてあきれてしまった。20歳の大人のいうことかと思う。
そのための対策としてと紹介されていたテレビを見てさらにうんざりである。

献血ルームに足を運んでもらえるように、献血ルームではネイルサロンのサービスをする、献血している間に爪に装飾してもらえるんだと。あるいは評判の店の食べ物を用意するとか、とにかく若い人にうけるためのメニューの充実をはかるのだという。

成人式の例でも、当事者扱いで大人扱いをされたほうが、力が出るのではないか。

なんだか成人にすりよって、子供扱いするごとに、それは大人側では親切のつもりだろうし、費用もうんとかかるのだろうけど、全然力の方向が違うんじゃないかと思ってしまう。

献血って社会で生きていく以上、助け合う、それはいつか自分が世話になるかもしれない、そんなときの貯金と考えるほどの当たり前のことなんだけど、想像力がないということでしてもらえないことになっているんだと思う。大人としての扱いをしてもらえれば、あるいはわかることではないのだろうか。親切に親切には、子ども扱いをする、いってみるなら馬鹿にしているってことにもならないのかな。そんな人が多いのはもっともなれど、もっと大人扱いをして責任を果たす機会を与える、そんな生き方のほうがまだましになるのではないのかな。

新成人をみていると、遠い過ぎし日のことなので、いかにも若いと思うけど、大人扱いで頑張る力を出す人がきっといると思うのです。

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性能かデザインか

主人が温泉に行ったおり、風呂に入っている間に時計がなくなった。多分盗られたのだろう。その時計は息子が就職したおり、長い学生生活を送らせてもらったのだからと(彼は大学生活10年間を送った)初給料で父にプレゼントしたもの。息子からのプレゼントという大切な時計、息子に謝っていた、気にすることないよと言われていたけど、主人がっかり。そこで今度は私がプレゼントすることにした。

時計って時計屋さんという専門で買ったものだが、よくみてみれば時計屋さんてあんまりない、知らない店をひやかすのもな~と、大型ショッピングセンターに向う。時計はどこだ、あんまりないんですね~。いわゆるブランド店には時計はそれなりの有名なブランド時計がいっぱい。値段で折り合わずというよりも、主人はお洒落で時計をしているなんてことはない。時計をしたまんま、水仕事もざぶざぶ。そういえば若い時に奮発して贈った時計もじきに駄目にしてしまっていたなと思い出す。正確に時をきざみ、日常生活の水ぐらいの耐久性を備えた時計であればそれでよし。

大型ショッピングセンターにはそんな時計が、つまりは性能のよい国産時計、こんな当たり前の時計がなかなかない。安さが売りのスワッチなどはまたたくさん売っているのです。一番需要がありそうだと思っているい路線て、ただたんに私が思っているだけか、ようやく見つけ、予算は随分安ついたので嬉しいというよりも、なんだかな~だったけれど、とりあえず買ってプレゼントした。予算あまったのは、息子のものに。

時計って、電波時計などのようないわゆる時計の性能を極限まで追求した時を刻む精密機械というところを全面にだした、日本のもの作りの結晶というものって、ものすごい技術なのに、それが値段にはねあがるということがないようだ。技術のすごさってどうしてか値段に反映しないようだ。技術ってすごいものなのに、量産できると捕らえられているからか、値段に反映しないのですね。

ものすごい技術をまた律儀にも価格引き落とす方向に頑張るものだから、技術が値段にどうしても反映しない。

ブランドの時計って、精密機械としてのすごさではなく、デザインのすごさが値段に反映されているのですね。、手仕事、デザイン、本当は時計の本来的な目的のところじゃない部分が価格を生み出しているようだ。間違って水仕事に無茶に使おうものなら、ただちにダウンである。繊細で気むずかしい、大事にそっと扱わなきゃならないのが価格を生み出している。

日本のすばらしいもの作りの技術にかける情熱、こりゃちっとはデザインというか、繊細さとか、稀少にの方向をめざしたほうがいいのじゃないのか。

時計って本来的な目的で使うならば、すぐれた国産が一番。

しゃれたデザインを気にいったなら、ブランドかもしれない。一応一つぐらいは持っているがアバウトな時の刻み方、分解掃除しなきゃなどのメンテナンス、全然嬉しくない。

性能かデザインかといえば、絶対性能と言いたい私は純粋国産愛用者である。面白みないかな。

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言葉

言葉というのは抽象概念を表わす言葉であって、たとえば鉛筆という鉛筆はない、鉛筆というのは鉛筆全般、抽象概念を表わす。これって当たり前のことなんだけれど、言葉って使う頻度によったり、あるいはその時代ではその時代の具体的な意味合いが多いについて、言葉にあるにおいがついてきてしまう。

こどもの時分ある先生が便所をあらわす言葉として、ご不浄といってらした。ご不浄という言葉は優雅なれども、その時代の便所というのは汲み取りで、どんな言葉を使っていたとしても、便所を表わす言葉を口に出すだけで、なんだか臭いが漂ってきそうであったし、臭い、汚い、暗い、恐ろしいイメージがわいてきたものである。便所を表わす言葉は言葉の償却が早い、それはその言葉にイメージがついてしまって、抽象概念をあらわすはずが、具体的なイメージの表意になってしまうからである。

今や、トイレはひところのイメージからすれば、明るい、きれい、清潔なイメージが一般的。すると便所をあらわす言葉が便所ではなく、トイレなどというあまり臭いがしない言葉と変化し、イメージが悪いとも思えないので、トイレの言葉は多分使用歴史は長くなるような気がする。言葉の責任ではないけれど、具体的なイメージを付けられて随分損な言葉もあるし、また得とも思える言葉もある。

最近肉親、親族を表わす言葉が微妙に変化してきたというか、使い方が違ってきたかなと思う言葉が多いように思う。

まず、実家という言葉。実家に帰らせていただきます、なんてのは嫁の伝家の宝刀みたいなもので、実家があるのは女に決まっていたように思う。頼れる実家の存在は心の杖であった。今や、男も実家である。若い夫婦が独立したら、男も女も実家があることになる。昔は多分男側では、母屋といったように思う。若い二人は対等。そんな意識が実家という言葉にある気がする。実家に帰らせていただきますと、よよと泣くか、腹をたてるのは女の特権ではなくなった。男もよよと泣きそうである。

連れ合いの親は、舅であり姑であった。その言葉の意味する内容が、想像させる内容が嫌われたものか、今では、義父、義母という言い方が主流かもしれない。時代劇なんかで「舅殿」と声をかけているのは、なにも封建的な身分制度を感じさせる言葉とは思わないけど、きっとそんな臭い、頑固でわからずやの舅、しっかりものではあるが意地の悪い姑なんかみたいなイメージがついたものか、舅、姑という言葉はあんまり使われなくなったような気がする。

抽象概念だからと私は舅、姑という言葉を使っている。義父、義母という言葉はあまり好きでない。そもそも舅、姑というのは、連れ合いの親であるけれど、あくまでも一番近い他人であり、初めからそれなりの距離を保つべき人と思ってきた。あまりに期待したり、あるいはあまりに馴れ馴れしくして、距離を間違えると一喝は当たり前と思うし、そういう立場の人として接してきた。それなりに馬があったというか、心地よい距離のおかげというか、小さな波風はお互い経験してきたと思うけど、まあうまくいってきたなと思っている。あっちが大人だってことかな、それとも私も大人としてやってきたというか。

私は店をやっているので、色んな人がやってくる。長いお付き合いのかたが多い。それなりの年になると、背負っている荷が重くて、愚痴をこぼしていく人も多い。その愚痴の中味を聞いていると、舅と思っていない、あるいは姑と思っていない距離のとり方が間違っているのが愚痴をこぼす原因になっていると思うことが多い。もとより舅というのは、偉い人、頑固な人、と思ってしまえば、そんな愚痴をこぼすほどのこともなしと思う。年をとって、舅、姑と思わず、役目を終えたただの年寄りと思うから腹がたつなんてことがあるのだろうと思う。

言葉というのは抽象概念であって、言葉には責任なんてのはない。でも長い間使われてきた言葉には、長い時間をかけた中味、重み、臭いなんてのが一杯である。その言葉を捨て去っても、中味がそんなにすっきり捨てることなんてできない。今やはっきりもしない新しい言葉を使うのが新しいのだろうが、それはその言葉が内包している中味をただ目をつぶって見ないふりをしているに過ぎなくて、マグマのようにあるときに中味が噴出するのだろうと思う。

昔使った言葉、たしかにあんまり嬉しくもない中味をいっぱい詰め込んでいそうだけど、言葉という表面をかえてみても中味はそんなに変わらない。昔からの言葉をそれなりに使ってきたほうがむしろわかりやすいと思う言葉が多い。

見なかったことにしているものは、見えてないからなくなったのではなく、じっしりと意識下に体積していそう。言葉を変える、言葉の責任てなんだと思う。

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幸せについて

芥川龍之介の子供向け小説に「芋粥」というのがあります。今昔物語を下敷きにしてとありますが、実際にあるのかどうかは定かではありません。

ある屋敷に仕えている雑仕がいつか芋粥を食したことがあり、あの芋粥を腹いっぱい食べられたらどんなに幸せだろうと常々思っていて、その呟きを耳にした主人が、芋粥を馳走してやるというのです。どうしてと雑仕は不審に思うものの、嬉しくて芋粥を一杯食べてご馳走さま、これで十分ですと言うのだけれど、どんどん薦められる。もうこれでいいと言っても承知してもらえない。さらにどんどん薦められる。

この主人は親切心で雑仕に芋粥を振舞ったのではないのです。腹いっぱいになってもさらに食べよとくるのです。主人の言葉に従わないわけにはいきません。あんなに憧れていた芋粥、いまでは苦痛になってくるのだけれど、さらに食べなきゃならない。もう見るのも嫌になってから、主人は満足したかとようやく解放してくれる。

雑仕は長年憧れていた芋粥を腹いっぱい食べられて幸せになっただろうか?というのが話の主題でした。

幸せというのは、憧れている、じつは満たされていない時にこそあるのではないかという芥川独特の皮肉な目も感じられる。子供向けであるけど、幸福ということを考える手立てになっていた。

趣味としてお茶を続けている。本業の仕事を続けながらの精神的な自立と、精神の解放を願ってのお茶である。お茶は趣味であり、あくまでも従のものである。お茶を主に据えていらっしゃるかたも多いようだ。あちこちで話を聞いてみると、お茶にどっぷりつかっていらっしゃるかたは、好きで始めたことだろうけど、気がつけば仕事になってしまっているらしい。お茶で忙しいというよりも、お茶という仕事の世界にからみとられていらっしゃるようだ。つまりは色々の会というのがあり、その会に出て勉強するつもりが、あの会につきあえばこの会にも、あのかたの茶会に顔をだせばこのかたの茶会にも、自分の茶会に来ていただければ相手の茶会にも。シーズンになる毎週である。さらに場所の広がりも全国になっていくらしい。

こんな茶人はお茶の世界ではすごい茶人の評価ももちろんあるだろうけど、それにからみとられていかにも忙しく、自分に向いていないのではと悩んでいる人もいる。

暇がなく、あるいはお茶にふさわしい道具のあれこれの不足を嘆きながら、茶事を行っている。やってみようと決めてから、実際の実施には大体一年ほどかかっている。一年かかって腹の中でじっくり発酵させているがごときである。多分こんな不足が幸せなのだろうと思う。

仕事現役の人が早く定年になってお茶のあれこれだけを考える境涯になりたいとブログに書いてらっしゃるのを見かける。今の状態ではそう思われるのだろうと思うけれど、お茶によらず、じっくりと時間があればきっともっとよくなるとか、幸せになる、もっとましになるという思いはわからないわけではないけれど、それは違うんじゃないかと思う。

仕事を抱えてないないずくしだから、かえってその中に不足に安住する幸せもあるのではないのだろうか。時間が一杯あれば、会の世話などが押し寄せて、それはそれで充実した仕事ではあろうけど、あくまでも仕事になりやすいのですね。

お茶に関して、今はお茶の教授者ばかりになって茶人が少ないという人もいる。

幸せなんて自分の満足度でしかはかれないけれど、人から見て十分羨ましいと思われる境涯の人が案外不幸せをかこっていることが多い。自分の境涯って案外人から押し付けられたと言っている人もいるけど、じつは自分が望んだとまでは言わないけど、自分が承知した人生である。いつまでも仕事現役で忙しいと言っているのも自分が選んだ人生。

芥川の「芋粥」を思いながら、不足に安住する今が、そして私の境涯こそ幸せと言うべきかもと思っている。

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仏壇のこと

知り合いの方の実家は砺波地方の田舎であったが、家族がそれぞれに別の地方に移り住んだ。その家には年寄りだけが残っていたのだが、その年よりもなくなり無人になってしまった。残された大きな仏壇、150代の大きさであったそう。長い間家族が心を込めてお参りをし、守ってきた仏壇である。お坊さんも読んで魂を抜いてもらったそう。さてその仏壇をどうしたものか。

北陸の地は昔一向宗の信徒が守護大名を追い払い、百姓が自治をし、いわゆる百姓の持ちたる国を実現したこともある。一向宗、浄土真宗の信仰熱いところである。当然各家には立派な仏壇をおまつりしていて、朝夕の勤行を必ずするのは当たり前であるという家は多い。

私の生まれた家は、親がいわゆる分家したのであるが、分家にふさわしくないほどの仏壇があった。親が分家する時に持たせたというよりも、なんだか事情があったようだがよくはわからない。分家してさらに南方からマラリアつきで命からがら戻ってきた父親は、自分で小さな会社を建てたのであるが、財産とてない。銀行が今のようにお金を用立ててくれるなどにはなかなかならない。お金につまってどうしようもなくなれば、仏壇を売ろうというのが口癖であったらしい。仏壇をうる羽目にはならなかったのだけれど、後々、母親が笑いながら、どうかなれば仏壇を売ってと父がよく言っていたのだけれど、仏壇一つでどうにかなると思っていたんだね~と笑いながら話してくれた。

その後、父親の頑張りで、さらに大きい立派な仏壇に買い換えたものである。前の仏壇は親にしてもらったのだからと、下の弟に譲ったものである。やけにでっかい立派な仏壇に今父が納まっている。

さて前の話の仏壇であるが、今こちらでも大きな家に何世代も同居するということがだんだんなくなってきた。150代とか200代とかの大きな仏壇、ひところは1000万円もするものもあった。住み方の違い、生き方の違いなどで大きな仏壇は売れないらしい。件の仏壇、仏壇やさんに話をすれば、ひきとりますよ6万円懸りますという話。6万円でひきとってもらうのではなく、まるでいらないゴミのかたづけ賃がかかるみたいに、6万円を払うのである。仏壇やさん何件かあたったけれど、やはり5万円とか6万円をはらって下さいとのこと。仏壇は工芸品、ばらしてきれいに直して売れるものと思っていたのに驚き。

リサイクルセンターに話すれば、2万円はらって下さい。倉庫賃ですねと言われる。

こうなりゃ、個人で欲しい人を探して只で差し上げますとあちこちに声をかけたが、欲しい人がいない。大きすぎるらしい。

戦後、仏壇をただ一つの心の拠り所として、さらに担保として考えて、これがあるからと頑張ってこれた父親のことを思うとなんだかせつないし、また笑えるのである。仏壇を心の担保にして、父親は黄綬褒章までいただくほどに頑張ってきた。

いまその仏壇はまるでゴミの扱いである。時代の移り変わりであるが、かっての心の拠り所がそんな扱いになるなんて、なんともせつなくやるせない。

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小さな旅  忘れられない私の旅

毎日何かしらの本を読む、師走になってさすがに忙しい、肩の凝らない随筆集を。手にとったのが「小さな旅  忘れられない私の旅」というNHKから出ている本、視聴者の方々の旅である。さまざまな心の旅、青春の旅など、どれもなかなか素晴らしい。自分の小さな旅、青春の車窓をふりかえってみた。

昭和39年だったと思う。友達と九州一周の旅にでたことがあった。昭和39年、戦地から帰った親世代の頑張りで、私たちはその親の頑張りをもっぱら楽しむことができた。親は忙しく、また自分の頑張りで家族が楽しんでいることを親としてやってやれることが嬉しく誇りでもあったものか、のんびりと楽しんでいる呑気な学生であった。

3月の終わりごろであったろう、鹿児島の開門岳を車窓から眺め、真黄色の絨毯、菜の花である。麦の青々とした畠も見えていたかと思う。もっぱら鈍行のがたごと旅であったが、気がつけば、向かいに新婚さんと思しきアベックと座席が一緒になってしまった。いかにもその時代の新婚さんであった。白い帽子をかぶり、白い手袋、これ以上考えられないお洒落なのだけれど、そのおしゃれがいかにも普段からの格好とは違いすぎ、似合っているとか、すてきとは言いがたい。大学生の私たち、目のやり場にも困ったが、なにしろ若いものだからなんでもおかしい、笑いをこらえるのに一生懸命であった。

多分農家のかたではなかったか、いかにも外仕事にまみれて真っ黒に日焼けしたご主人、これも目一杯のお洒落であろうが、きちんとスーツ、それが寒いところの出身か、毛糸のチョッキを中に着ている。外は菜の花畠、上気しただけでもなかろう汗びっしょり。新妻に語りかけているのが聞こえてきてしまう。「ここらはもう早い、菜の花がもう咲いている。麦ももうのびて早いな。家の畠ではまだこうではない」などの畠講釈がずっと聞こえてくる。かたや新妻、頬をそめて聞き入っているという感じよりも、何にも耳のはいっていませんという感じ。白い手袋を握り締めてそとをじっとぼ~~っと眺めている。向かいに座った我ら、必死になって笑いをこらえていた。

途中に降りていったアベック、我らその後思いっきり笑い転げたものである。でもその後に考えた。実直そうな新郎であった。九州の新婚旅行って大奮発であったろう。もう九州にきただけで、人生の大イベントは大成功だったのだろう。それを笑うとは不届きであった、反省しながら、でも笑い転げていた。

鈍行がたごと旅、やはり鹿児島であったと思う。その時の電車?汽車?は窓を押し上げるものであり、風をはらんでといえば聞こえはいいが、煤で真っ黒になったものであった。ある駅から若い人が乗り込んできた。我らの方にきたと思ったら、窓を押し上げて外にむかって手をちぎれんばかりに振って、振って、窓の外に体をいつまでも乗り出していた。窓辺にお菓子などをおいておいた我らのお菓子、全部外に放り出されてしまった。なんてこった、と思ったけれど、ちぎれんばかりの手振りのあと、列車の中でいつまでもなきじゃくっていた。お菓子なくなってしまいましたと文句いうどころではない。思うに春3月、故郷を離れて就職という状況ではなかったろうか。人目も気にせず、なきじゃくっていた彼女。高校を卒業したのだったか、それとも中学の卒業であったか、年はよくは覚えてはいない。

呑気な大学生で親だけが戦後の疾風怒濤を駆け抜けていた。ねだって買ってもらった革のジャケットなんて着ていた私。

まだまだ熱気があふれていた時代、みんな必死になって頑張ってそれぞれの成果を手にいれ、さらに頑張っていた。

親の頑張りで呑気な大学生活を手にいれていた私、それでも旅費や小遣いはアルバイトで賄うのは当たり前であった。大学生になってからは、親に小遣いはもらった記憶はない。家庭教師をして賄っていた。

誰もかれも熱気に満ちていた時代、本当にあの時代の世相そのまんまであったなと、あの九州の旅を思い出す。

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今日12月15日は孫の芽生の誕生日、5歳になった。孫のお父さんヨーロッパに出張、多分今日帰ってくる。「誕生日おめでとう」の電話をしたら、「おとうさん2つ寝たら帰ってくるんだって」「お土産なにか買ってくるかもしれないね」「うふふふ」嬉しくて言葉にもならない。「おとうさん留守だから、めいちゃんお父さんの布団で一人で寝ているんだよ」「お利口だね~」「うふふふ」嬉しくて、嬉しくて言葉にならない。

孫を見ていると、子供って本当にまったくの疑いのないただ明るい今日があり、明日がある、その中で目一杯生きていると感じる。

世の中には悪意があったり、理不尽があったり、思いによらないことが一杯あるということを全然知らず、すべて無垢なまんま輝いているかのごときである。そのあどけなさと無防備なかわいさにより、私たち夫婦はもちろん可愛いと思うけれど、あの輝きはいつまでのものかと一抹の寂しさで孫を眺めている。孫を見ていると元気がもらえるという人も多いけど、私は元気をもらうというよりも、輝いていると信じているような無邪気さには、いつまでも輝いているわけにはいかず、煌きはじきにくすんでいき、困難が一杯ある現実を思うとちょっとせつなくなってくる。娘夫婦が子育てを通じて、子供に現実に対処する強さと賢さを兼ね備えるように育てて欲しいと願わずにはいられない。

娘夫婦は楽しんで一生懸命子育てをしている。自分たちよりも子供のほうがよくできているとまったく親ばかもいいところだけれど、そんなふうに考えて毎日の成長を楽しんでいる姿をみるのは悪くない。

毎日が楽しいばかりで、まわりの人は善意に満ちていて、全部を信じて疑わない、あんな日々の様子は本当にまぶしいばかりである。まわりを信じて疑っていないような幼児なので、まわりではすこぶる評判がよく、誰にでも好かれて可愛がられているようだ。あんな黄金の日々が続くわけではないけど、その優しさに包まれて、少しずつ強く賢くなって欲しいと願っている。

それにしてもう5歳、弟の鵬又は1歳、にぎやかで楽しい家族である。、娘の家族の幸せを心から願っている。

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あきらめない、そのつらさ

あきらめずに頑張ることをよしとする風潮である。あきらめずに追求すれば、あきらめずに頑張れば達成できるものばかりではないだろう。

薬害肝炎のニュースしきりである。気の毒である。でも政府の責任と涙を見せながら、目が釣りあがったように追求している人たちは、治療費を補填して欲しいと言っているのではないだろう。国の責任を追及と声高に言ってらっしゃるけど、国の責任てどこまでなのだろう、どうすれば気持ちに沿ってあげることができるだろう。

薬というのはあるいは医療というのは、危険もしくはマイナスと表裏一体のものであろう。毒にもならない危険性のまったくない医療ならば、多分命の危なさには対応できないだろう。命を救うか、危険性の回避かを選ぶとなれば、迷わず救命を選ぶと思う。必死の医療行為が、その病気に功を奏したとして、後にそのマイナス部分が出たといって責任をどこまで追求できるのだろうか。さらにこの時代で日本という類まれなすすんだ文明国であるからこそ、受け取れた医療ではないのだろうか。文化のすすんでいない、あるいは経済的に遅れた国であったならば、決して受け取れなかった恩恵ではなかったのだろうか。

たとえばアメリカではその薬剤の危険性は指摘されていたのかもしれない、それが日本ではその情報が遅れていた、同じ文明国なのに怠慢であると責めることはやさしいかもしれない。聞くところによると、アメリカでは保険というのは個人の責任に応じてはいっているものであって、自分の甲斐性ではいっている保険なので、その保険に応じて医療の中味が違うと聞いている。日本では公的な保険に加入、所得に応じて医療の中味がまったく全然違うということはないようである。病気によって治療が違うけれど、所得に応じて治療の中味が違うということであれば、それこそごうごうの非難であろう。アメリカではあなたの入っている保険では、標準的な治療はこんなものですと言われるとうことを聞いている。

どっちがいいとか悪いとかの話ではなく、各国の実情が違うので、一番すすんでいるところを持ち出してそこだけを指摘するのはいかがなものかと思ってしまう。

薬害のかたにあきらめたらというつもりは毛頭ない。

ただどこまでも追求しても納得できるところというのは、相手にあるのではなく、自分の納得でしかないのではなかろうか。目を吊り上げて追求している人を見て、しかたなしと納得というよりも折り合いをつけながら生きている人たちもいらっしゃると思うけれど、それでは駄目なのかになりはしないか。

なにごとも諦めない、それで気持ちが治まるのかな。怒りのエネルギーがそんな方向に行っているのだと思うけれど、怒りがどんな方向にいくのか怒りだけで終われるのかな。

気の毒と思いつつ、新しい地獄にはいってしまわないかと危惧してしまう。一方的な犠牲と聞こえているけど、その薬剤で治療、救命されている事実もあったのだということを思ってみたい。医療者がびびって危険性をまったく回避すれば、医療の進歩もないし、つぎの救命もおぼつかないのではなかろうか。

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黒豆おこわ

弟が6ヶ月の入院をこえて退院できた。長い間の辛抱であった。お疲れさん。自宅に帰ればまたまた自宅療養の辛抱が待ってはいるだろうけど、とりあえずは帰宅できたのだから目出度い。

こんな時にはきちんとした退院祝いをして、神様にも仏様にも報告感謝しなきゃ罰があたる、あるいは厄払いにはならないとどうしても考えてしまう性質である。退院したと聞いているのに、そんな内祝いが来ない、家族はとりあえず安堵しているのだろう、忙しいのだろう、気もまわらないのだろうとは思っていても、ぐずぐずしていては疫病神にまたつかまってしまうのではと気が気でなく、こうなりゃ私が内祝いというか神様、仏さまに供えるためにと、黒豆のおこわを作って実家に届けにいった。

目出度い、こんなときは小豆の赤飯、これは実家流であった。我が家は目出度いのはいいのだけれど、食べて好きである、おいしいほうを優先する。我が家では黒豆のおこわのほうが好き、そんなわけで黒豆のおこわである。

嫁いだころには黒豆のおこわで目出度い?と違和感があったが今や我が家流である。一番違和感を覚えたのは、子供誕生のおりのこと。女の子の場合は小豆の赤飯であるが、男の子の場合は黒豆のおこわであったこと。息子誕生のおり、姑はこれで黒豆のおこわが食べられると喜んだものである。なにしろ外孫は2人とも女、内孫にして2番目ようやく男の子の誕生。念のいったことには、私の実家に祝いの赤飯を持ってくるなら黒豆をと電話までしていた。なぜかまったくわからない。習慣である。人が喜ぶようにと当然黒豆であった。さらに驚いたことには、そのおこわには甘い黄な粉をかけて食べるのである。ご飯に甘い?塩ゴマじゃないの、と違和感はさらに。でも今や、黒豆のおこわには黄な粉かけが当たり前になってしまった。

妹のダンナが亡くなったおり、ホテルで法事の会食を頼んだら、悲しみも癒えない49日の法要であったのに、黒豆のおこわが出た。これも目が天の出来事であった。

赤飯、おこわなどは各地の習慣で色々ありそうである。嬉しいにつけ悲しいにつけ、特別な日の特別な食べ物、そういうものが赤飯なのだろう。

若い時には自分の習慣をそのまんまにすべてと思っていたから、違和感を覚える、なんだかな~などと思ったりして、この家へんなどと腹の中で毒づいていたりしていたが、今や我が家流は嫁いだ今の家の習慣そのものである。

どうでもよいことのようだが、何かあった時には、神や仏にきちんと挨拶するべきと思う習慣は、実家もそうであったし、我が家もそうである。今や実家の我が家流は弟の嫁さん流である。それはそれなのだけれど、神様や仏さまに対する態度だけは、どうしても自分にしみついていて、そうでないやりかたは気持ち悪いと思ってしまう。

少しも合理的ではないことは重々承知しているけれど、小さいときから見て覚えて体に染み付いていることはどうにも我慢ならない。理屈ではないですね。

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難民?

原油価格の高騰、やはり日常生活を直撃である。価格の高騰は全世界をまきこんでいるし、必ずしも需給のバランスの崩ればかりでもないので、当分安くなることはなさそうである。こうなりゃ悲観的になってばかりいないで、ちょっとは前向きに考える手立てはないものか。

灯油の値上がりで家庭生活に直撃しているのは勿論であるが、暖房費を抑えたくて家にばかりいないで、暖房の効いているところに出かける年寄りを暖房難民なんていう言葉で言わなくてもと思う。

そもそも若い、年寄りにかぎらず、各家庭の単位が非常に小さくなって、暖房、電気、水、生活の基盤がまるで個人化。言ってみるなら、効率からいうならば非常に不経済になっている。さらに自分一人で他人とのかかわりが非常に薄くなっている。地球温暖化と声高に言っているけど、あらゆるものの効率が悪くなって、どんどん温暖化しているわけで、企業にばかりその責任を追及しているのはおかしい。レジ袋をマイバッグにするだけで、地球温暖化に貢献しているとはとてもいえない。

ストーブ一台を一日中たき続けて、そこで暖をとっているのは多分一人。灯油の高騰を機会にもう少し効率よく暖をとっていますと前向きに考えたほうがいいのでは。公の施設にいけば、暖房は効いている。そこで多少とも仕事を持っていったり、おしゃべりして、自宅の暖房、電気はすべて切っておけば、これが熱の効率のよい使い方で地球温暖化に貢献しているといえないだろうか。

空き店舗なんてやまほどある。そこを借りるのは持ち主にとっても、町にとっても、集まる年寄りにしてもよいことがある。なにも公のお金をあてにすることはない。みんな我が家でかかるべき消耗費のたとえば半分でも、4分の1でも持ち寄れば、それで運営できるのでは。暖房の集約化と考えればいいのではと思う。

昔の生活には戻れない、今の状態をなんとか維持していこうとするならば、言ってみるなら集約化して効率化すればいい。ひきこもりにも役にたつ、空きやの部屋はゆったり使える。人とのかかわりが年寄りにはいいかもしれない。

そんなことを考えれば、暖房難民などと冷たい言葉を持ち出すべきではない。明るく「地球温暖化に貢献したいと思って、暖房の集約をしています」などといえば、年よりも灯油も買えない惨めさを感じなくてもいいのではと思う。

図書館にでもいけば、まるで暖かく、ゆったり過ごせる。

私はプールに通っているが、健康のためと思っているが、わりあい年の人、時間をきって出かけるのはめりはりが効いて生活が心地よい。プールのあとに風呂もあるので、家での風呂はわかさない。家を留守にしている間、テレビ、暖房も切っているので、生活費にも役にたっていると言い切る人もいる。

つましい、ものが無い状態を貧しい、おいてけぼりとばかり言わないで、つまりは被害者意識にばかりたっていないで、もっと前向きに笑えることとしてとらえればと思う。あまりに悲観的すぎる、被害者意識ばかりのニュースは滅入るばかりである。

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わかるということ

とおきみおやもあさこぎのうたきかしけんいみずがわ きよきながれにうるおいしれきしはえあるわがさとよきさとびととおいいでん

なんのこっちゃですが、これは実は私が遠い昔に歌った小学校の校歌です。今書き換えてみると以下のようではあるまいか。

  遠き御祖も朝漕ぎの歌聞かしけん 射水河 
    清き流れに潤おいし 歴史栄えある我が故郷よ
    良き里人と生いいでむ

えらい格調の高い古風な歌である。歌詞は「万葉集」の大伴家持の歌を下敷きにしているのは言うまでも無い。こんな歌を小学一年生から歌っていた。もちろん意味はまったくわからないまんま。お経みたいなものだった。わからないまんま、なんか昔くさくて、恥ずかしいと思っていたものである。中学校に入ったとき、私の行った中学校は小学校4校が集まってできていた、各小学校出身で校歌を歌ってみるように言われ、弱小小学校出身であったし、昔くさい陰気な歌を少ない人数で歌ったのだが、中学校の音楽の先生、よい校歌だねと言ってくれ、嬉しく思ったものである。
あまりのわからなさにかえって印象深く、その後中学校、高校、大学と校歌は歌ったのだけれど、さっぱり忘れてしまった。

今小学校の校歌はどうなっているのだろう。

日本の学力が下がったと大騒ぎである。ゆとり教育の弊害といわれている。思うになんでもわかる、わからせようというのがこの頃の風潮ではあるまいか。

今になって校歌の意味がわかり、そして遠い昔に故郷に赴任してきていた家持までが歌にもりこまれていたのだと、深い意味に納得している。もっとも確かめてみようと妹に小学校の校歌覚えていると電話してみれば、当然覚えてはいたが、尊いという意味でないの、と今になってもわかっていない有様。それでも歌詞は覚えてはいる。

わかるのは何十年もさき、そんな教育の仕方もいいなと思う。
チンパンジーと人間の比較で、記憶力ということになると圧倒的にチンパンジーの赤ん坊のほうが優秀であるとの話が新聞に出ていた。人間の大人よりもはるかにチンパンジーのほうが優秀であったとか。あれこれを勉強しなきゃならないということになると、記憶力という力が弱まっていくらしいのである。人間同士だと子供のほうが記憶力に優れている。小さい時に、意味もわからないことをどんどん教える、記憶力がすぐれているので、その時分の覚えたことはいつまでも記憶に残り、はるか時間がたってようやくわかるということにもなる。

なんでも子供に納得させる、じっくり言ってきかせる、そんなのは無視してどんどんわからないまんまに進める、いつかわかる、そんな壮大な計画があってもいいのではと思う。年にあわせてなんていってるので学力が落ちるのではと思うのである。

そういえばルーブル美術館には、小学生全員が行くことになっているそう。子供にはわからない、あるいは興味もてないということがあるかもしれない。でもフランス人として見せておくべきとおいう信念があるのだという。いつか興味を持てる、わかる時があるという信念なのだそうだ。

わかろうがわかるまいが絶対教えておきたいこと、習うに価値あることをどんどん教える、そしていつかわかる、そんなわかるがあってもいいのではと思う。

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かぶら寿司

12月に入り寒さが一層つのってきた。かぶら寿司の季節である。大きな手にあまるかぶら15個を荒漬けした。たっぷりと水が上がっている。本当に何分の一になるんだろう。頑張る季節である。

かぶら寿司を我が家の人間はそう食べない。おいしいよと強制してようやく食べるくらい。にもかかわらずど~~んと漬けるのは、これを楽しみにして下さるかたがいるから。その中でも大阪のHさんの感激ぶりは、こちらが気恥ずかしくなるくらいである。

Hさんは若い時に大阪に出た。今となれば若気の至りだったと、故郷を捨てたことを後悔しきりである。自分が大阪に出たので、ついに母親まで大阪に出て故郷はなくなったも同然である。なぜ故郷を捨てたのか、母親まで巻き込んでと、あんなにも後悔しなくてもと思うほどに悄然。自分の人生が失敗だったとは思わないけど、本当にうかうかと意味もなく故郷を捨てたと何度も愚痴る。これは奥さんにも言えないことらしい。なにせ奥さんて大阪の人だから。そして子供たちは大阪生まれの大阪育ち。父親あるいはダンナの心の穴は誰も知らないらしい。

この人とは高校生の時クラブで一緒だった。クラブの同窓会で45年ぶりくらいに会い、私の若いときの写真を持ってきて下さったこともあり、御礼の気持ちでかぶら寿司を送った。

すると自分の好物をどうして知っていたのか、あまりにおいしく懐かしく、一人で食べましたと大層なお礼を言われ、どっちかというと海老で鯛を釣ったかたちになったのだった。

思うにHさんにとっては、かぶら寿司はたしかにおいしいものであっただろうけど、それは故郷で過ごした幼い、あるいは若い時のあまやかな思い出にまぶされたものであって、そして若気の過ち(本人曰く)で故郷を捨てた、その懐かしい故郷そのものの味であったのだろうと思う。かぶら寿司は誰が作っても作り方は決まっていて、材料はかぶら、しめ鯖の酢じめ、人参、麹を発酵させた甘酒ようのものと、決まっていて、懐かしさを裏切るようなことはない。

かぶら寿司はただのかぶら寿司という食べ物以上の存在になっているのだと思う。一番おいしい食べ物は、思い出という調味料をたっぷりまぶされて、輝いているのである。

娘夫婦は昨年草津市で家を新築した。都会ではあるけど、わざわざ昔から存在していた村の中に土地をみつけ新築したものである。既存の村の人に可愛がってもらえるよう、迎えていただけるようにと、私たち親はおおいに気をもみ、家の建築にあたってはご近所に何度もものを持っていって挨拶をし顔つなぎに躍起になった。暖かい人ばかりで娘家族は多いに受け入れられ、とても楽しい日々を送っているのは嬉しいことである。

そのさい、じつは隣に畠があり、行かないさきは住人の人わからず、畠の住人の人はご近所ではなかったということで挨拶漏れになっていた。なぜ挨拶に来ないのかと、なんと市役所に文句いわれたよし、驚きあやまるとともに挨拶には行ったのだけれど、一人だけ気の重い人がいるんだねとちょっと気にはなっていた。

畠にいらっしゃるので挨拶をするのだけれど、変わり者の人らしいと、さわらぬ神にたたりなしにしていたのだけれど、昨年、娘宅にかぶら寿司を送ったさい、娘夫婦はまあ一つ二つ食べる程度、かぶら寿司実家からきたのですが食べられませんか?と言ったところ、大好物!ということで多いに喜ばれたとのこと。

なんでもサラリーマンをしていらした時、金沢に出張か転勤かをしてらして、かぶら寿司を食べ、こんなおいしいものがあったのかと驚いたのだったとのこと。思うに、サラリーマンをしていた自分のかっての栄光の日々を思い出す食べ物であるのだろうかと思う。それ以来すっかり娘家族に親切きわまりなく、畠でとれた野菜はどうだろうとよく下さるとのこと。すっかり娘家族は地元に溶け込んでいる。かぶら寿司が思いかけず時の神になったらしい。

かぶら寿司は、石川や富山地方の郷土料理で、麹のなれ寿司の一種である。

かぶら寿司にかぎらず、食べ物はかく個人にはそれそのもの以上に思い出という本人特有の味付けで、食べ物以上にもなっている。

娘などはまだまだ故郷の食べ物などを懐かしがる年でもないが、Hさんのように故郷を偲ぶ食べ物になることがあるのだろうか。
私は生まれたところからそう遠くにもきていないので、偲ぶ料理などはあまりない。心締め付けられるような思い出の食べ物としてかぶら寿司を喜ぶ人がいるので、私は頑張って作るのです。

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渇望

人は悲しいから泣くのだろうけど、また泣くから悲しいとも言える。悲しいと涙があふれ、より悲しさを増幅する。すると甘やかな気持ちになったりして、悲しみは薄れていく。泣くと悲しいとはどっちが先かはわからなくなる。

私はもう40年近く販売の仕事に携わってきた。人が物を買うのは、持っていないから欲しい、それは非常に単純で、欲しい人が手にいれたときの満足感はこちらも嬉しくなる。欲しい、その充足感は欲しいがもうかなったのだから、それでもうそのものに対する執着心は治まったのだから、それで完結である。

こんな人に物を売っているのは楽しい。でも実際にものをたくさん買う人は、決してものを持っていない人ではない。はっきり言って、ものを買う人は、持っているから次があるのである。

持っていない人は、なにか理由があって、品物を欲しい、必要に迫られてである。こういう人は商品知識もさほどにない、差し迫って欲しい理由を尋ねれば、売る側は相談にのっているようなもの。相手の気持ちを慮って、差し迫った理由だけの世界以上に、世界をこんな風に広げることができますよとか、予算にあわせればこうだけど、もう少し頑張ればこういう風にもできますとか、とにかくアドバイスはできるわけ。このアドバイスこそ販売のプロとしての矜持と頑張るわけである。このアドバイスを受け入れてもらえるほどに、相手に信用をしてもらうことができるようにと心を砕くわけである。こういう人にアドバイスができ、のちに感謝されるのは非常に嬉しい。こんな人との信頼関係を築きあげることができ、また次にと来てくださり、相談にのって欲しいといわれるのは本当に嬉しいことである。

でも実際にたくさんものを買う人は、自分の好きなものを、それはもちろんそうなのだが、買うから次に欲しいものが現れる、そしてまたつぎを買うということになる。ものを持たない人が買うのではなく、ものを持っている人しか買わない、次々になっていく。経済的に裕福な人が次から次へと買う、あたかも品物を憎んでいるようにしか見えない、そんな買い方をする人をセレブなどとはやす風潮がある。大量生産、大量消費の時代に生きていれば、そんな価値観がまかり通るのはしかたないかもとは思う。好みが細分化して、多品種少量生産ではあるが、サイクルが極端に短く、次々への時間が短い。

人は泣くから悲しい、悲しいから泣く。
これと同じである。物を手にいれるから、次次に欲しくなる。買うから買いたくなるのである。買わない人はさらに買わない。

お茶の道具などは、さらにそうである。ものをたくさん持っている人は、次々買うから持っている。持っているから、次々に足りないとか、不足だということになって、これでよしということがない。普通の生活道具や衣裳とちがって、たくさん次々と買うのは、商品に対する憎しみには見えないが、心の渇望ということではいっしょである。

ものを手にいれて、欲しかった!と満ち足りた充足感で、いつまでも握り締めていた遠い子供の日、みんなものを持っていなかった。少し手にいれたら、心まで満ち足りたものであった。

今ものがあふれている。欲しいものはわりと簡単に手にいれることができるようになった。幸せになったのだろうか。渇望はますますひどくなってくる。

次々に買う人は、もちろん上得意さんである。でも昔ほどものを売っていても充足感はない。

ものを手にいれるって何だろう、充足感ではなくなってしまった。もちろんその商品そのものの価値にはあるのだけれど、たくさんの商品でかえって薄まってしまった。

泣くと悲しい、この関係はどこにでもある。

渇望、手にいれればもっと欲しくなる。これを餓鬼というのかもしれない。お釈迦様のいう地獄って、欲しいものがどんなことをしても手に入らないだけのことではない。手にいれても、手にいれても満足感が得られない。次々、お金を持っていても、人から羨ましがられる境涯にあっても、地獄の中にいるのだということもある。

ものを売る仕事に疲れを覚えるこのごろである。

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和顔施

店にいらっしゃるお客様のご主人、リンパ腫で命をとりとめ5年。発病した時には残された時間は2~3年と言われたそう。奇跡的に直ったかと思っていたのだが、やはり再発というか、病が出てしまった。再発ではなく、脳に放射線を大量に照射したおかげで脳が萎縮、脳の機能がだんだん悪くなってきたのだという。対症療法でなんとかという状態ではある。

いわゆる脳の萎縮により、痴呆症状を呈しているのだけれど、まったく子供に帰ったような感じでいつもにこにこなのである。奥さんがどこか行こうとすると、手をにぎって離さないとか、本当に子供になってしまった。赤ん坊の邪気のない笑顔がそのまんまである。色白で目が大きくにこにこなので、可愛いと看護婦さんにも言われるとのこと。この症状って医者にいわせれば、脳のどの部分がダメージを受けたかによっての顔の表情で、本人の意思によるものではないと仰るのだという。

医学的にはそういうものかもしれない。だけれど奥さんの苦労、悲しみ、大変さに対する感謝の表情と考えればどうだろう。そういう笑顔にならせる力は、人知をこえたものとしてあるのじゃないの、と私は思う。これを「和顔施」というのだと思うよ、とその奥さんに言ったら、その言葉を紙に書いてお守りとするねと持っていかれた。

「和顔施」自分がなにもできなくなって、人の世話になって生きていて、人に迷惑をかけるだけ、自分の存在価値なんてないなどというような動くこともできなくなったときに、にっこりと微笑むということができるかもしれない。それはその人の生きているあかしであり、感謝の印であり、人間らしい感情の発露と考えられる。

医学的には脳の機能障害の外に現れている一つの形かもしれない。でもそうあらしめるなにかがきっとある。あなたや世話をして下さっている医療者への感謝の気持ちが、本人の後ろから何かわからないけど、伝えたいと思ってそんな表情をとらせているに違いないと思うよ、とその方を励ましている。にっこりの顔を見るといとしさがこみあげてくると彼女は言う。もしなくなられたら、どんなにか寂しいだろうと彼女は言う。それは心からの言葉である。夫婦のきずなと思いやりに感動しながら、和顔施、これこそがそれだと思う。

施すということは余裕のある時とか、わざとらしくこそばゆく感じる言葉ではあるが、どんな事態になってもできる人間らしい営みだと思うのである。

和顔施を杖として彼女に頑張ってほしいと思うし、勉強というのはどんなことからでも学べると思うのである。

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いけず

若い時にはなんでかというほど京都に行った。仕事の関係でもよくいったし、娘が京都の大学に行き、しばらく住んでいたこともあってよく行ったものである。その時からみょうに違和感を感じていた。

たとえば仕事先、担当になると、それはそれはの追従というかなれなれしさ、それが担当を変わるとまるで手の平をかえしたよう。大阪での仕事先では、それほどの追従はないかわりに、担当をはずれたとしても、それほどの違いはない。どっちも二十年は付き合いしているので、私の感想はまるでずれているわけでもなかろうと思う。

京都ってうちうちの感覚に中では、親しげであるが、それがずれるとまるで愛想もない。先日久しぶりに京都観光にでかけたが、ひさしぶりにいけずに会った。万福寺に行ったのだが、JRではまるで田舎。お昼になったので、見渡せばあ~有名な普茶料理があったではないですか。店はほどよく込んではいるが、席がないわけではない。私一人。「立て込んでいますので」と断られ、「待ちますが」、といえば「待ってもらってもできません」「どこか食事できそうなところはありますか」「さあ、ここらあんまりありませんから」こんな応対ってとあきれ、ぶらぶらすれば小さな焼蕎麦屋さんあり、京都で焼き蕎麦かと思ったがしかたなし、ここですませて、寺の参拝に。ちょっとみればほかにも料理屋さんあるじゃないですか。こういうのをいけずというのじゃないのか。

嵐山なんかでも、散策してアイスクリームでも買って、ほんのちょっとそこにあった椅子に腰掛ければ、「困ります。そこはうちのです」って旅人はどこの椅子かわかる?

観光寺院にはいれば、長い歴史の間での謂れ、そりゃなんかはあるだろう。それを大層に書き立て、中に入ればなにほどのものもないのに、あちこちの建物は全部拝観料別である。庭、建物維持にお金がかかるのはわかる。だけれどあれで、それだけのお金取りすぎと違いますか?一つの寺、その塔頭それぞれの宣伝である。あれで寺?歴史?

京都って白足袋族が支配していたなんていうけど、今では経済的な意味では、たいした所ではない。工夫が足りない。えげつないとこと思うのである。工芸の世界では、石川県が一番盛ん、ついで京都で、そして富山県である。何が京都をして特別なところにさせているのか、今となればわからない。

世界に観光を宣伝してあれだけお客がくることもを思えば、もっと内々の価値観から大きくなったほうがいい。京都といううだけで特別、そこに住んでいるだけで特別という雰囲気をどうしても感じさせてしまう。

建前と本音を使い分ける大人の町と思っていたけど、私はそんな大人の価値の雰囲気を感じてはいない。私だけのひがみか、暫くは京都には行きたくない。ひさしぶりに京都のいけずを体験した。

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痩せる

ダイエットなんてほとんど挨拶の言葉、「痩せたんじゃないの?」「またまた太ってしようがないのよ」この言葉には実感はない。女同士の挨拶である。

でも実際にはお目にかかった人で本当に痩せた人には、気楽には声をかけてはいけない。そもそも50歳を越えそうな人なんて、運動不足と代謝が悪くなったのはセットみたいなもの。そうそう痩せるわけなんてない。実際に痩せたと思しき人は、体を悪くして入院してました。あるいはお目にかかってしばらくしたら入院したなんていう話になるのだ。あるいは人に語れない大きな心配があるとかである。気分転換をしたくて、服の一枚も新調しようかと店にいらっしゃるわけで、そんな人に「痩せました?」なんてのは禁句である。

弟が6ヶ月の入院のすえ、退院できた。大変な治療を超えて、本人の頑張りと医療チームの適切な判断のおかげである。大変だったろうけど、よかったね、それでいい筈である。弟の奥さんは、真面目一直線てな感じ。本人は小学校の校長先生である。真面目で努力家、それが功を奏して校長になったのだろう、それは多いに認めます。でもこの真面目一直線が病人には有効にはならない。弟の奥さん、義妹はなんと9Kgも痩せてみる影もないほどにやつれている。心配なのはわかる。完治したと言ってもらえなかったのかもしれない。でもでも身をやつれさせ、心配しているその姿は、病人にプレッシャーを与えるだけじゃないの。とりあえずは治療が功を奏したわけで、しかもこの治療法はもし5年前だったらなかった治療法であったというし、5年後だったら本人が応えられず、治療の対象にもならなかったというではないか。運がよかったのだと思ったほうがいい。

弟の家族はまことに仲がよく、何事も家族全員で喜びも悲しみもともに分け合おうという主義の家族であった。その中には母親も含まれていたので、他所にでた我らの出る幕はなく、あんな家族なのね、でもなんか危ういなと思っていた。いつも弟が主導して家族全員、麗しい家族愛であるけど、こんどのような危機的な状況になると、どうも義妹には踏ん張る力がないじゃないか。一人一人の運命はいかんともしがたく、なんぼ家族でも頑張るのは一人一人の力がないとと思うのである。弟の息子、親孝行なのか、遠い就職先からほとんど毎週帰ってきて、母親を慰めていたようだ。うるわしい。でも踏みとどまるのは自分自身である。毎週帰ってきたって病人はよくはならないだろう、それどころか遠いところから来ようとして事故まで起こしたと聞く。

団子のように固まると力が大きくなるかもしれないが、真面目一直線、視野の狭さと心配性の家族の団子はとめどなく悪いほうへの考えへと傾斜していく。痛々しいが、この考え方の癖、悪いほうへ悪いほうへと考える癖は、自分で気がつかないとなんとも解決のしようがない。居直る強さは、居直る本人が気がつかないとどうにもならない。

私も妹ももちろん人並みの、あるいはそれ以上の試練にはもちろんあってきたわけで、なんとか経験から言葉をかけたいと思うけど、弟家族はなんだか全員心配団子の中で、人とくに小姑の我らの言葉なんか耳にはいるはずもなく、聞く気もなさそうである。

痩せてやつれている姿は痛々しいが、その姿は決して病人にとって有難いものではない。自分が相手に対して、そんなつらい試練を与えているのかと本人がつらいだけじゃないか。

真面目、心配をする。うるわしい夫婦愛みたに聞こえるけど、私はそうは思わない。夫婦といえども一人一人の人生であり、ある部分は交わってはいるが、個人個人であると思っている。こんな考え方を押し付けるつもりは勿論ないが、危機になった時、頑張る力をなんとかもちこたえて欲しい。

ダイエット、痩せるなんていうのも命がけである。

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ある婆さんの死

義姉の今は無きご主人のお母さんが亡くなられたとの連絡あり、主人は通夜にそして葬儀にいってきた。95歳の長命であった。亡くなられたとの連絡があり、あれ~まだ生きてらした?とあほなことを言ってみたりする。

義姉の無きご主人というのは、今なくなった人の長男であった。長生きをするということは、子を見送るということにもなるんだねと感慨深い。さらにこの婆さんには3男3女であったが、自分の子は長男を見送っているし、娘たちはダンナに先立たれた人2人である。6人の子供のうち、3人が連れ合いをなくしているのであった。長生きってつらいものだと思わざるをえない。95歳の長命でめでたいことですなんて言えるわけもない。

そんなに長生きをあまりしない時代には、人生の決算は葬式にあって、たくさんの人に惜しまれて、たくさんの人にお参りしてもらえる人がえらいのです、なんていう考え方が主流なこともあった。親が無くなれば、子供が立派に跡継ぎをしているだけではなく、社会の中枢でそれなりの地位を得ていて、それは立派な葬儀でしたなんていうのを、羨ましがる風潮もあった。

95歳なんていう長命だと、子供は現役引退になっているし、さらに今の人みたいに6人の子供のうち、半分は連れ合いをなくしているなんてことになってしまっている。さらにもう外に出あるけることもないので、身内だけは知っているけど、世間的には、もうすでに亡くなってしまったのだと思われている。存在感がまったくないわけである。亡くなってようやく存在に気がついてもらえたというようなもの。

人数の少ない寂しい葬式であったらしい。当人は世の中から引退してどれくらいたってるのだろう。子供世代でさえ、現役引退である。

最近長生きされるかたが多く、葬儀は非常に簡素になっているのが多いようだ。若い時には、大層なそれなりの地位にあった人かもしれないけど、たとえば60歳で定年とすると、じつに35年もたっている。現役の華やかさの余香もとっくの昔になくなってしまっている。

身内だけで簡素に送ってもらう。賑々しい華やかな葬儀を望んでいた人にとってはもの足りないだろうけど、まだ生きていたんですか、などといわれ、誰一人、泣くものがいない葬式は、愛想がないようだけど、当人は誰も悲しませることもない大往生というわけで、えらい、立派といえるかもしれない。

賑々しく立派に送られるのは、まだ早いのに、中折れしてしまった人の惜別の式かもしれない。

身内だけのひっそりした式で送られるのは、幸せなのか、長生きするというのは幸せなのか、色々考えるある婆さんの死であった。

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君の名は

昭和27年、NHKの連続ラジオドラマとして菊田一夫作の「君の名は」は昭和29年まで、二年間のラジオドラマであった。私小学3年生から5年生。風呂が空になる話も知っているし「忘却とは忘れ去ることなり。忘れえずして忘却を誓う心の悲しさよ」という冒頭のナレーションも覚えている。真知子巻きなんていうショールの巻き方をしてみたものであった。

名前も名乗りあわない二人が、日本中をさ迷う話は、子供心に馬鹿馬鹿しい、滑稽なこととしか思えなかった。後年大学生の時、旅行したら、雲仙では真知子岩なんてあったし、美幌には真知子松なんてのもあった。戦後のまだ旅行も一般的ではない日本で、名所旧跡案内かとも思ったが、先日「君の名は」の民俗学、という本を読んでみて、面白いとも納得したともいうようなことがあった。

そもそも万葉集巻頭、雄略天皇の歌に 
    籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岳に 菜摘ます児 家                  聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しき   なべて われこそ座せ われにこそは 告らめ 家をも名をも

とあり、君の名は、と聞くのは、求愛であり、そしてそれに応えるのは、その求愛にこたえる、つまりは結婚を承諾するということであるといいう話がでていてなるほどと納得したものである。

本名をあかすのは、親と求愛を受け入れた相手だけ。つまり、名前というのは単に個体につけられた名というのではなく、その人の魂につけられたものであるという話であった。君の名は、というのは魂に呼びかけたものであって、呼称として読んだものではないのである。名を呼ぶがよばいになり、夜這いになっていったという民俗学的考察は面白いものであった。

名を呼び、それに応えるということは結婚を承諾したのであって、そういう人でない人には名を秘するのである。そうであるからこそ、平安時代の女性の名は皇室関係以外では知られていない。みな官位であるとか、父親の名前からそう呼ばれていたにすぎない。女性蔑視なのではなく、魂の宿るものは秘するのが普通であり、男の人でも亡くなって後、おくりなとして始めて本名があきらかになることも多いという話であった。

君の名は、と尋ねられ、咄嗟のこととて応えなかった奥ゆかしさ、あるいは恥ずかしいという感情のせいではないのであった。その後、その二人の魂は呼び合い、かくして日本中をさ迷うのであるが、これが熱狂的に受け入れられた理由は、物見遊山のかわりもあったろうし、すれ違いが歯がゆくもあり、またせつなくもあったろうが、みんな気がついてはいなかったろうが、魂を呼び合う、この状況をみな納得していたからであったらしい。

今、インターネットの世界ではハンドルネームという名前で色々やりとりしている。覆面性があり、あるいは過激であったり、無責任な言葉のやりとりになっている場合も多い。

ハンドルネームの軽さは、やはり本名に宿っている魂がないから、ふわふわと重石がないのかもしれない。ハンドルネームに責任持ちましょうなんていっても、所詮それは架空の個体につけられた名前であって、親が真剣に考えてつけた、本人の魂につけた名とは比較にならないのであった。

君の名は、と呼ばれ、自分の魂を揺さぶられることって、一生涯に何度もないであろうが、名前の持つ意味、それの民俗学的な意味を考えると、軽々しく名前を扱うべきではないとつくずく思ったのであった。

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髪型を替えることで気分を転換することは女性ならば誰でもやることであろう。ささやかな気分転換ならば、これで十分。誰が髪をいじってきたと気がつかなくとも、ささやかな自己満足であっても、なにか気分一新したような気にはなる。鬱陶しいから髪を切ったという程度でも、なにか、ちょっと気持ちのいいことがおこったような気にはなる。古来髪には、女性の魂のこもったところとの認識あり、たかが髪であるが、ほかの肉体部分とはちと違うという感じがする。

お客様が、髪を切ってパーマをかけてちょっと可愛くなって現れた。目ざとくみつけて、「髪型かえた?」といえば嬉しそう、何年ぶりかでパーマをかけたとのこと、たかがパーマとはいえない現状に絶句した。

このかたのご主人5年前にリンパ腫をわずらい、救命のために大量の放射線の照射治療を行ったとのこと、救命はできたけれど、脳が萎縮してしまい、脳の機能が非常におちたとのことであった。車椅子に痴呆症状が加わわっている。さらに脳の機能と大腸機能というのは近いそうだが、腸が脳の指令がうまく機能しなくなって、腸閉塞をおこし、あやうく命落としそうになったとのこと。

最近病状がすすみ、大学病院に救急車で運び込み、とりあえずの治療でどうにか落ち着いたとのことでした。痴呆症状があるし、さらに動けないし、24時間つきっきりの看護であった。療養型病院に受け入れてもらうことができ、その病院に転院できたとのこと。この病院はつきっきりの看護はいらないので、はじめて時間ができたとのこと。今までは自宅での看護であった。ただただ子供に帰ったようなご主人の看護はそりゃ大変なものであったろう。5年間である。パーマをかける時間がとれなかったので、本当に何年ぶりかのパーマであるとのことである。

私のささやかな気分転換とは大違い。髪型をおおいにほめてあげたい。

この方の姑さんは、脳梗塞からくる痴呆で、家族は誰もわからない。療養型病院に入院中である。人間いきていくのに、あれやこれやの様々な困難を乗り越えていかなきゃならないのは当たり前であるが、こんなに困難な人生を歩んでいる人もいる。

私はただ話を聞いてあげるだけである。髪形をかえた気分をよかったね~、ちょっと可愛くなったねと誉めてあげることしかできない。

髪型をかえて、気分を一新、また新しい事態に頑張りたい。そんな決意表明の髪のパーマであった。

白髪が目立つから、うっとうしいから、この年であんまりだから、そんな程度の髪のパーマなのは、いささか幸せな日常の表れなのかもしれない。

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いつの世も・・・・

「鬼平犯科帳」の出だし、「いつの世も・・・」とあって四季の風景、好きな番組でした。

本当にいつの世も、汚職をする不届きな役人はいつだっていて、目新しい事件でもない。いつの世もお金の動くところには、汚泥がわきあがることもある。そうなんだけど、随分まえの汚職なんかだと、とかげの尻尾きりよろしく、大抵下の役職の人が何もいわず、自殺をして事件はうやむやに終わることが多かった。派閥のリーダーが残された家族の面倒をみ、悲しい事件の始末を引き受けていたように思う。総理大臣経験者のすごい事件を決定ずけたのは、部下の白状ではなく、部下のかっての女房であったことがあった。蜂の一刺しと有名になったものである。そんな告発、内部告発をする人は非常にめずらしく、蜂の一刺しの女性は、変な格好をしてその後テレビに出ていた。それだけ関係者の白状というか、内部告発は珍しかったのである。

組織に従順であるというか、死後にまでその秘密は持っていくべきと考える人が多かった。まるで藤沢周平描く江戸時代の武士の感覚と変わらなかったようだ。それは組織に属している人だけでなく、そういう風土を容認する気持ちがみんなにあったように思う。そこまで上の人をかばわなくとも、と思いつつ、そこまでの忠誠を尽くす人を、事件はともあれとしても、いささか立派とも思い、また組織に属するということはそういうことなのねとやるせない気持ちを持って眺めていたものである。

今や、不祥事がおきるや、まったく歯止めのないだだもれ、ぺらぺらと紙に火がついたようなものである。正直に申し上げます、恐れ入りましたというのじゃなく、じつに淡々と、悪いことをしたという意識なんてあるのかね。自分と一緒に地獄にひきずりこんでやれとでも思っているのか、事件のおこりかたは昔とかわらないけれど、かかわっている人間の薄汚さだけが際立っている。

ひところまでは、人間を律しているのは、封建時代と一緒で武士の一分みたいなもので、道徳観というよりも組織に属する約束であった。「菊と刀」でベネヂクトは、日本人の罪意識ではなく、人に恥じる罰の感情で動くといったけど、その感覚はずっとひきずっていたようであるが、今や、罪意識もなく、人目を憚る罰感情でもなく、規範意識のなさだけが際立ってきている。

日本人の心を支えているものが音をたてて崩れていると思う。汚職なんていつの時代にもあったというのは簡単であるけど、本当にどうなっているのと思うばかり。

内部告発で崩壊する企業も多くなってきている。悪いものはたしかに悪いけど、自分が属しているところを信用できないのは、なんともうそ寒い。

事件の多さよりも、そんぽ背景にある日本人としてのアイデンテテイの崩壊こそがもっと大きい問題なのではと思っている。

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冬近し

寒くも感じないけど、もう冬近しなのね。もう「報恩講」のお勤めに御坊さんがきて行かれた。当地は真宗王国、我が家は真宗大谷派、いわゆるおひがしさんである。真宗王国に育ちながら、さして信心深くもなく、お経は何度聞いても自分であげることができない体たらくである。

我が家の檀那寺のお坊さんは、本山の宗務会の副議長をつとめていらっしゃるとか、何も知らず、宗務会の働きってと聞くつもりで、年間の予算てどれくらいですか、と聞けば、80億円から100億円とのこと。ひえ~~。さらに法事を控えてどこぞを直したり建てたりしているとのことで、そうすると300億円ぐらいになるそうである。さらに驚き。

ここでこんな大掛かりなお金の運営に、親鸞から連綿と続いた門主さまのかかわりは?と聞けば、27年も続いたおひがしさん騒動のはてに、権限はなにもないとのことであった。宗教法人てすごいお金が動くところで、しかも税も免除されている大変な世界なのね。報恩講のありがたいはずのお経は理解不可能、下世話な話だけが頭に残った。

床の間に東本願寺の門主で、俳人であった、大谷句仏の
  みぞるれば 草鞋の祖師を しのぶかな
の句を掛けておいたのだけれど、今や、草鞋の祖師どころじゃないのねと、ちと皮肉な思いにふける。

一昨年は大雪で、雪吊り、雪囲いをしないさきに降った雪が根雪になり、大変ひどい目にあった。それに懲りて、なるべく早く雪の準備。
庭師の人が、もう雪吊りをしていってしまった。兼六公園の美しさには到底及ばないけど、やはり冬の風物詩である。庭も冬の装いである。大きなゆずりはがあるのだけれど、この落葉はまるでちらりはらりではなく、音をたてて落ちてくる。大きな袋に一杯にすぐなってしまう。これを林間に紅葉をたき、酒をあたためる、などという優雅なことをしている時代ではない。掃くだけである。するとただのゴミ。優雅でもなんでもない。

昔は冬の準備といえば、漬物は欠かせなかった。大根を盛大にほして、大きな桶に沢庵を漬け込んだものである。今や、そんな大掛かりな漬物をしても、食べられない。それよりも温暖化のためか、薄塩を好むようになったからか、前みたいに漬物が保存食の役割を果たさなくなってしまった。

冬の準備といっても、別にになってしまった。道路事情も悪くなることはなく、とくに準備しておかなきゃということがなくなってしまった。楽になったけど、なんとなく寂しい。そこでたいして必要でもないのに、庭に面して雪囲いをして覆ってしまう。部屋は薄暗くなるけど、こっぽりつつまれて暖かい感じがする。できる間はやろうと思う。

柿守が残っている家も少なくなってしまった。秋は深まる。

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限界集落

意味はよくわかるのだけれど、限界集落って温かみの無い言葉だと思う。限界というと頑張ったけれど、武運つたなく、もういっぱいいっぱい、だけどものすごく頑張ったうえなので仕方もなし、という感じがある。

地方では山に向って立派な道がどんどんできて、昔からみれば、車社会でもあるし、山は人里離れた住みにくいところではない。多分行政サイドはそういう認識だろう。ところが立派な道路ができて、ひところよりもずっと人里に近くなったはずなのに、人口の減少に歯止めがかからない。新潟、能登の地震で、わかっていたけれど、あえて目をつぶって気がつかないふりをしていたことが現れてしまった。

限界集落はどんどん人里におりてきている。すると熊やら鹿やら猪が、その限界集落に現れるようになって、害獣ということでどんどん殺してしまう。そして限界線はさらに里山におりてくる。私の店の従業員の実家は今でいう限界集落であった。寺も神社もあったという山の部落であったけれど、今では二軒しか住んでいない。その奥にもう一つ部落があったのだけれど、それは無人と化し、廃墟の家あとがあるだけ。彼女の村は一番奥の村になった。彼女の家は町におりてきて、山の家は壊してしまった。先祖からの墓と、かっての家の敷地が今ゆっくりと山に帰っていっているところである。柿や栗の木があるが、熊が出没しては、いままだ山にいる人に迷惑なので、なったとたんに全部とりにいく。

近所の人がなくなって葬式などというから、近所かと思えば、昔の山の仲間の家のことである。遠くに移り住んだ人たちで、年寄りがなくなると、故郷に帰りたがっていたのでと、故郷に近い葬儀場での式である。まだ顔を知っていた年寄りだから、まだそんなつながりはあるのだけど、もう少しするとまったくつながりはなくなるだろう。

故郷喪失というなんともせつなくなる話である。でもそれは自分たちが決断して下りてきたのだから文句はなかろう、と言える?

山の田、畠は手間もかかるし大変であろう。でも段々畠や段々たんぼは、そんな意味で作られたものではなかろうが、ダムの役割をしている。ダムなんて公共がやるべきことと思っているけど、実は多いに治水の役割をしていた。労働は大変で、経済効率優先と考えれば、あんなところでちまちまと作られたものが、競争にさらされるようなものになるわけがない。山の木の植林、間伐、草刈、みんなみんな手がかかって大変だろうけど、山に降った雨が養分含んで海にいき、そこでプランクトンが発生、魚が豊漁なんてことになるはず。

限界集落なんて、愛情の無い言葉で、そんなに限界!というほどのことをやっていたのか?もっとそこに住める、そこで踏みとどまれる応援がもっとあって欲しい。地球温暖化などと遠くばかり見ていないで、地方、山に住む人たちをもっと見てあげたい。頑張っている年寄りの善意が破綻したあとでは、もう遅いのじゃなかろうか。

小さい政府、税収ののびなんて考えられない時代になれば、公にたよってはいられない。それはそうなのだ。昔、公がいまほどに力が無い時代、それでもみんな力あわせて乗り切ってきた。今の人、力はない?そうではなく、原理そのものがどうも間違っていると感じるので、自分だけが踏みとどまることがばからしい、それよりも競争の中にいないと生きていけないような仕組みになっていて、時代といっしょに走る、走らなきゃならないようにいっつも気持ちに余裕がない。負けたらと思うと怖いのである。

いつ何時負けるか、あるいは穴に落ちるかもしれない。なんでこんなに不安な社会になったのだろう。

山に住む人たちに感謝したい。そんなことを表わせるようになったら限界線は踏みとどまれるのかも。

そういっている自分が何もしていないことに、いささか後ろめたさを感じつつ、ゴマメの歯軋りをしている。限界集落なんて言葉はとりあえず嫌だ。

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買い物

買い物って実物をたしかめ、納得して買うものと思っていた。もちろん現金買いが原則。

私の車、もう11年、まったく下駄と一緒な感覚。最低限オイルの交換はするけれど、掃除などはしてやることもなし。なのに性能いいんですね。どこかにぶつけたというような小さい事故以外、なんの障害もなし。当然車検を受けて次も乗るつもり、「まだ乗るんですか?いいですけど」の言葉を受けて車検、「まだ110000KMしか走ってない、今から調子よくなるんです」とは息子の言。また2年間つきあうことに。当然保険も更新。

昨年主人が車を買い替えたのだけれど、それを息子にまかせたんです。大きな買い物に嬉しがり、あちこちの車屋さんをまわり、ある車に。その保険をインターネットで申し込んであった、今まで主人が付き合いのあった保険やさんに入っていたのからみると随分割安であったそうな。それが主人、我が家にわきをこすって自損事故、あんな安い保険が補填してもらえるはずもなしとしょげ返っていたけど、なんと立派に補填。しかも電話した明日には受け付けたという車屋さんが代車をもって引き取りに。きちんとした対応で無事車も思った以上に直してあったよし。

さて私も今度はインターネットで、まずは見積もりを。まあ山ほどきました。違うのですね。条件、補填の内容などなど。それは当然のことなのだけれど、付き合いのある保険やにおまかせになっていたことを深く反省。見積もりを眺めながらじっくり検討、ここかというところに入ったのだけれど、いわゆる保険て自己責任ということをちゃんと考えなきゃということでした。インターネットで安く仕上げようと思えば、自分でできること、ならびに自分での決断ということが当然ありました。おまかせにしちゃいられない。

今まで物を売る、買うは地域で、看板のあるところで、顔をみながらばっかりであった。インターネット販売は無店舗であるので、店をはるための経費、それは権利金であったり敷金であったり、あるいは地面の値段であったり、店舗の建築費であったりするものはいらない。さらに人件費は大幅に圧縮される、そして在庫のリスクを抱えることはない、安くできて当然である。買う側にすれば、自分の自己責任を考えれば安くできるわけである。ただし、そのことに関しての知識を得ることは勿論であるが、ここでという決心をしなきゃならない。

売る側にたてば、買ってくださるかたの一人一人の状況を把握して、相手よりも専門的な知識を持っていなきゃ到底やっていけない状況である。おなじみさんだからというのは甘えなのかも。おなじみさんに甘えて、対応がまずければ即打ち切りである。今までの保険やさん、どんなことなら補填できる、補填できないという説明もなかったし、なあなあのまま、納得できないこともままあった。インターネットで入るには、じっくり自分で検討してはいったのだから、補填できるできないはまずは自分で決めたことで納得できる。

さらにこの保険料を電子マネーで払って、ポイントをためることもでき、今や息子から海外旅行できるけど行ってくればと言われております。一人でなにもかも・・・せめて国内旅行にしようかと思っている。

「いつもにこにこ現金払い」なんて言っているのは、アナログ人間の娘。個人の店で売れないわけの一端もわかりましたね。今やネットでの買い物のほうが品は豊富だし、よく考えればよいことも多いわけ。

買いまわりの品々、私も小売業、仁義があってネットでとは思わないが、買い物事情の一端を勉強する機会にはなりました。

なんでも勉強しなきゃならない時代ですわな。

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秋深まる

今年は猛暑であった。ために虫が大発生、桜の葉はすっかり散ってしまい、木は冬がきたと錯覚。秋、おだやかで落ち着いた天気が続く、桜は春になったと勘違い。ちらほらとあちこちで桜の花が咲いている。返り咲きというのですね。天変地異の表れかとどきどきするが、天候の異変なんだね。

秋祭りのシーズンである。近くの村のお祭り、毎年獅子舞に使う足袋や様々な生地の注文ありお届けしている。おだやかな天気続きだったのに、祭り当日はすごく寒く、風邪でもひかれないかと心配していた。今年は獅子踊りの衣裳も新調されたことでもあるし、絹でできた衣裳大丈夫?と思っていた。無事祭りを終え、支払いに。200軒も獅子舞をされたとのことで、世話役さん、声もかすれてへとへと。今年会計を引き受けられると、来年は副団長、再来年は団長をひきうけることになってるのだとのこと。伝統がきちんと守られていることに感心する。毎年違う人と話合うが、毎年本当にきちんとしたいなかのあんちゃんで、こっちは毎年いっしょ。こっちのほうが詳しいので、何かと聞かれることもあったりするが、本当にちゃんとした人たち。感心する。

今では役員は本人の仕事なのですね、男の人の世話役さんだけでやる仕事。すると、ほころびた、紐がとれた、汚れたの始末は女の人がいないので、商売屋の仕事になってしまうのです。

衣裳、汚れがないか検査、風通しのいいところに干しました。洗濯に出すとしても、絹の着物洗濯になれたところでないと無理、昔の洗い張り屋に持っていかなきゃならない。ついこの間まで、誰でも、どこでもできていたことができなくなってしまっている。きめ細かいサービスがないとやっていけないし、なんでも委託になってしまう。

陰干し、アイロン当て、こんなのも仕事。今我が家は獅子踊りの華やかな衣裳がはためいている。祭り終わり、秋も深まったな~の思い。

砺波地方は名だたるチューリップの産地。珍しいチューリップも多い。知り合いの家はチューリップ生産日本一の農家。ここでめずらしいチューリップの球根をわけてもらい、孫に送ってやる。喜びそうなものもぎっしりつめて箱をパンパンにして送った。来春、娘宅できれいな花を咲かせるだろうか。

秋も深まり、毎年のことで珍しいこともないが、今年も例年通りのことができた。

今週末、めずらしく茶会を自宅で。さらに招待も受けた。淡々とした日常でめずらしいこともないが、一つづつ何かをできるのは嬉しいことと思っている。

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老いるということ

80代のかたでも90代のかたでも、すごい活躍をしていらっしゃるかたは最近は多いようだ。とくに芸術方面に携わっていらっしゃるかたには、生涯現役というか、瑞々しい感性をもってらして、回顧というのじゃなく、新しいものを発表なさる想像力豊かなかたもいらして、驚くと同時に、老いに向う参考にできるかもとは思うものの、やはりとてもとてもとは思う。

主人と私、二人の親は4人。すでに3人見送った。一番長生きしたのは舅、数え95歳まで存命であった。父親、姑は80歳で亡くなったのだから、まあ平均的な長生きではあった。母は84歳か、元気ではある。

このように書いてくると、まあまあ生きてきたのだし、寿命つきたのだからと思うものの、それぞれの人生であったことは言うまでもない。

姑は脳梗塞、一度目は11ヶ月の入院を終えて自宅に戻り、どうにか生活をしていたけれど3年後再発、植物人間に。一年半入院死亡した。商売上手で世話好き、積極的でアクテイブな生き方をしていた人であったが、若い時に次女を病気で亡くしたので、極端に病気を恐がり、ついては病院にもいきたがらない人であった。人の見舞いにも絶対いかなかった。情のある人であったが、それはひたすら死が恐かったからである。病院にいけば、病気がうつる、病気になれば死ぬ、この気持ちは子供をわずか10歳で見送らなければならなかった人の今はやりの言葉でいえば、トラウマといえようか。

人は誰でも死はこわい。でも姑は特別であった。姑の親は、98歳、92歳まで存命であり、その年まで元気でぼけてもいなかった。たった3ヶ月違いで、あとから亡くなったおじいちゃんはおばあちゃんの死もしらなかったものである。とにかく元気で、ひたすら娘(姑のこと)を案じ続けた偉大な親であった。だから姑はいつまでも娘という気でおれたのも、死を恐がる要因の一つであったと思う。あんなに死を恐がる人はいなかった。

そんな姑の死の迎え方は、植物人間のまま、なんにもわからないまま、つまりは死ということを意識しないまま亡くなった。

積極的な生き方をしていた人の死は、やはり本意とは思えず、涙したけれど、一方、あんなに死を恐がった人は死を意識しないで亡くなったのだと、仏というか神というか、そのはからいの優しさを感じたものである。

父は南方の激戦地からマラリアつき、栄養失調で帰った人。まったなしの戦後の激動期、自分で会社をおこしひたすら頑張ってきた。及ばずながら私は長女であったから両親と一緒にあたふたと伴走してきた気分である。非常に我慢強い人であった。それかあらぬか、亡くなる前9年間は様々な病気との闘い、20数回の入院を重ねてなくなった。亡くなったときには勿論悲しかったけれど、ようやく極楽の仏さんの座が用意されたのねと、父のために喜びたい気持ちもあった。我慢を重ねて、不満をもらさず、病気と黙って闘ってきた父親をどうかして少しでも楽にと母親は力はいりすぎ、自分の能力を超えて、ついにはできない自分を責めつづけ、鬱病にまでなってしまい、後は時間がとれる私がしゃかりきになったものである。

辛抱強い人は、死にむかって一段一段階段を下りていく現実をじっと見ていなきゃならない。それは辛抱ができる人に与えられた人としての試練であろうと思うし、それを乗り越えていき、寿命を生ききり、子供たちに姿をみせて生きる意味を考えさせる手立てであったとも思う。

舅は94歳までぼけもせず、持病を抱えながら無理のない自分なりの時間で自分なりの生き方をしてきた人。人と争うことは好まず、人の先に出ることもせず、まったくマイペースの淡々とした生き方をしてきた人。腎臓が悪かったのだけれど、なんと私の知るかぎり40年以上も蛋白がおりたまんま。塩分控え目なんて無理をせず、ただ漬物は大嫌い、味噌汁もきらい、お茶が好き、これが病気にはよかったらしく、それは我慢をしてきたのではなく、ただ好きな生き方をしてきただけ。腎臓が持たなくなって、入院一週間で亡くなった。穏やかな死といえよう。

一番穏やかに人生を送ってきたように見える舅、でも長生きすると、尋ねてくる人もいず、好きな庭弄りも大層になってしまい、ただただ生きているだけ。これって長生きという罰があるのかと思ったものだった。

そして母、元気で耳も遠くない。家族にも大事にされている。なんの思うこともない老後かと思ったのに、父を見送るにさいしての鬱からくる、ぼけ、被害妄想のきらいがあるものの、まあ幸せな老後かと思ったのに、

今弟が入院している。もう5ヶ月たってしまった。本日末梢血肝細胞移植に望んだ。つらい治療は続く。気の毒でかわいそうでならない。でも母は少々ぼけてきたというか、感情が鈍磨してきているというか、腸ちぎれるような悲しみとは思っていないようだ。ぼけというか、感情の鈍さというか、時間というのはやさしいものではないか。悲しみに耐えられないときは、感情が鈍くなってくるんだねと、やはり仏さんというか神の計らいはやさしいものだと思わざるをえない。

長生きして、素晴らしい仕事の業績をのこす人は勿論素晴らしい。でも人に語るほどの業績を残さずとも、一人一人、素晴らしい人生を送ってきたのだと思う。一人一人の人生に深い意味があり、肉親として誇れる人生であったと意味を見出している。

仏というか神に抱かれているのが人生であり、それを果たしていくのが人生であろうと思う。

たった4人の親のことだけど、それぞれに深く教えてもらっている人生ではある。

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山の上から。

冬はスキー場、秋にはコスモス畑に、近くの夢の平スキー場です。ここの展望台からは砺波平野が一望できる。刈り入れの終わった砺波平野、ちょっと黄色がかって秋の深まりを感じる。

砺波平野は散居村の地。中学生のとき地図に散居の地と紹介され、郷土が紹介されていることにちょっと得意な気持ちになったものである。散居の地というのは、一軒一軒が散在していて、田んぼの中に住宅、納屋、蔵、作業小屋、車庫、どうかすると灰納屋、さらに地蔵のある家もあったり、聖徳太子をまつってあるお堂のある家もあったりする。大きな敷地には屋敷林があり、それは杉、松などの庭木もあるけど、実のなる柿、いちじく、あけび、びわ、ぐみなどなど、落葉樹もあり、屋敷内で生活が賄えるというようなものであった。

落葉樹の落ち葉は、堆肥の材料に、そして燃料に。杉葉はけぶったけれど燃料の材料になったものだ。煙はその昔、屋根が萱でふかれていた時代、虫除けになったものである。

家はあずま建ちもあったし、前下ろしの形もあったけど、どこも建ちかたはいっしょ、部屋の配置もきまっていた。家はかならず東にむき、まずは広間、座敷と続き大きな仏壇が、その後ろ側には控え間、玄関には式台がありその横に普通の玄関。式台から入れるのは特別な人。娘小学校の時の校長先生、学校卒業して新任の挨拶に地区の有力者の挨拶に、校長につれられてまわったとき、校長は式台から、新米先生は普通の玄関であったそう。「あんたも式台からはいれるような人になれるように頑張りなさい」といわれたよし。

商売人はもちろん普通の玄関であったが、どうしたことか、呉服屋は式台から招きいれられたものである。いり口を間違うのは無礼なことであったようだ。「さあさあ、こっちから。そんなとこなんですいね」といわれて式台からお邪魔したこともなつかしい。

そんな往時を思い出している。散居の集落は、一軒一軒が循環型の住宅であったと言われている。屋敷の周りはそこの家の田んぼであったし、畑にはさまざまなものが植えられていて、自家消費にはあまるほど収穫し、果物は楽しみな木が植えられていて、時期を教えてくれるし、食べ物を提供してくれた。葉っぱはゴミとあわせて堆肥にしたし、燃料にもした。

今やかましくいっている、地球温暖化にもっともふさわしい、循環型の実に無駄のない生活ができた家、家であった。

屋敷の敷地は大きければ1000坪もあり、平均でも500坪はありそうだ。建物は本体だけでも120~30坪あるのが普通かも。こんな大きな屋敷、家はもちろん一人で維持管理ができるはずもない。何代にもわたって、建て、手を加え、木はいつも伐って手入れはかかせない。つまりは何代も一緒に住むのが原則になっているのです。

今田んぼの中に、アパートもいくつも見える。何代もいっしょに住むことがはやらないのです。人間なんて同居しようと、夫婦だけで住もうと、なにかしら難題はわきおこるものであろうけど、そういう住み方を嫌ってきているのです。大きな屋敷林、手入れが行き届かず、台風の時に倒れた木が多かった。すかしてないので風をまともに受けたから。どんどん屋敷林を伐って、コンクリートの塀が増えてきています。大きな家には、ほんの少しの人間だけしか住んでいない。時代の移り変わりというのか。

今やかましく消エネ、循環型の生活と言われていて、それは何か新しい生活スタイルのように言っているけど、ふりかえれば、循環型社会、ついこの間までみんなやっていた生活。

目を前にばかり向けないで、振り返ると英知にみちた暮らし方をしていたんだなということに気付く。それなのに、落ち葉も燃すなっておかしいんじゃないの。田んぼの真ん中なのに。

でもこの循環型社会、既成ではないのですね。毎日の暮らし方の積み重ねなのですね。屋敷、家にいつも手を加えていなきゃならない。出来上がったものとかでなく、毎日参加型じゃなきゃつとまらない。これが難しいのだわ。何も何も、お金で片付けていたこの生活、循環型に~といわれても知恵がないようになっている。年寄りが亡くならない先に習っておかなきゃということが多い。砺波平野も散居でなくなる日もくるのだろうな。往時茫々、ちょっと感慨深い。

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誰がために。

個人で行う茶事は、正客はじめお客様はあのかたとこのかたとしっかり考えて同時に座っていただいた方々、亭主はどこを向いてなどと迷うこともなく、向ける範囲のお客様ではある。大寄せの茶会、席が始れば、当然席の代表者である正客にむいてお茶を点てお出しするものである。

準備の段階で、どのような方を想定して道具などの選定をされるものかなと思っていた。私の先生は大寄せの席主になったことがないので、さあ~という話であった。先生の友達の話、このかたは席主を勤められることも多い。

何百人いらっしゃるとしても、わかってくださるいわゆる個人の茶会の正客をイメージした一人、二人を念頭におき、道具、設えをするということであった。大寄せと個人の茶会とは本質的にはいっしょなんだなと思ったものである。大寄せと言うのはたとえば何百人もいらっしゃったり、その方々とは直接は知らない人が多く、いったいどこに向ってお茶を供されるのかと思ったのだけれど、直接見知りかそうでないかは別としても、正客としての扱いとしての準備というか、気持ちの傾けであるということであった。

不特定多数のかたを相手としてのたとえば商売は、どうかするとトップではなく真ん中あたりをねらっての準備になりやすい。最近では、年齢、イメージ、価格、などなどはばらけないようにピンポイントの狙いめになってることのほうが多いけど。

茶会ではトップをイメージしての準備ということになっているらしい。

先だっての旅行、銀行の旅行なんで毎年参加されるかたは多いらしい。さらに現実の仕事は半分くらいはリタイアしているかたも多い、すると旅行は趣味になってる人も多い。ちょっとした場所なんて、ほとんど行ったことがある人ばっかり。北海道なんていうと、札幌、小樽なんて何度も。知床にいってきたといわなきゃ自慢にもならない。毎年旅行社の人は知恵を絞って、スケジュールたててくるのだという。どこにも行ってきたというけれど、じゃ、そこの何を知ってる?ということになると、ん~~^である。バスに乗ってつれていってもらうのだから、仕方もなし。旅行社の人、何かめずらしい人を驚かすことはないかと頭ふりしぼりであるけど、ようするにトップをイメージしての計画ばっかりであるけど、中味わからないまま、ゆっくりと楽しむこともなく、珍しさに突っ走っている感じ。

制作されるがわ、自分の持ってる力ふりしぼり、究極のものを作られたものは展覧会用かもしれない。いわゆるめしの種という売れ筋に絞れば、どこにむけて制作されるものか興味あるところである。ところが多分、どこの業界でもそうではないかと思うけど、売れ筋って最近はまったくわからなくなってしまっている。ちょこっとあたりかなと思っても、あっというまに売れなくなってしまうし、流行というのはほんの小さな領域の中でのことであり、大きなうねりにはならない。個別になってしまっているのである。

お茶というのは、物をうるということとは違うけれど、非常に保守的でいっつもトップを見つめているものらしい。だから茶会にいくと、席主の力一杯の気持ちと、道具と、設え、おもてなしが満ち溢れている。現実の世界は、どこに目をむけていいのかわからない混沌とした、さらに言えば、索漠としたものであり、茶会にいけばしっとりと一番前を意識した世界が広がっていて、それは裏切られることのないもてなしの心の具現化であり、ほっとする世界でもある。

一番わかる人をイメージしての目一杯のもてなしの世界、それがお茶なので、どきに出向いたとしても、そりゃ力量の差は当然あるけど、気持ちいい空間が広がっている。誰がために・・・・それはわかってくださる正客のため、そしていつも正客の気持ちでいたい。現実のものを売る世界とは違うもんな。

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便利さの功罪

先日一泊だけれど国内旅行を。近所の銀行主催。こんな銀行主催の旅行に参加するのは初めてである。銀行主催なので、聞けば近くの人ばかり、そして中小企業の一応社長とか、奥さん方で家業の手伝いをしている人が多い。私参加は初めて、自己紹介とともにそろそろとそこらにいる人に話を徐々に聞いてみる。たくさんの人が、息子が跡継ぎとして家業の工場で働いているという話が多い。それは跡継ぎもあって、心強いですね、と話すれば、どの人も、というか男の人は、息子が頼りない、やる気もなしとこもごも愚痴をいうのである。女の人は、息子のことはあれでも一生懸命なのだろうけど、甘いです、頼りないという人が多い。

どうも男の人は、息子を認めていないような感じ。女の人は、一応認めてはいるのだけれど、あれではたよりないというばかり。

たった一泊なんだけれど、携帯電話を離さず、仕事の話ばかりしている。酒を飲みながらである。酒を飲みながらの仕事の話というよりも、ほとんど指図ばっかりである。携帯電話が悪いわけでは決してないけど、あれほど頻繁に指図、命令ばかりでは、誰がしっかりできるというのだろう。しっかり自立したいというのを断固阻止しているというものではないか.。男の人って、たしかに息子は自分を乗り越えるべきライバルなのだろう。自立を望みながら、実はまるで邪魔をしている、それは昔からそうなのだと思う。でも最近は、携帯電話という時を同一にする便利なものがあるので、親が自分を自制して息子が一人前になることを待つという辛抱強さがなくなってきているように思う。

海外旅行をしていても、やはり携帯電話を離さない人が多い。自分が留守にしている間に、トラブルがおきれば、留守番部隊は頑張ってその解消に取り組み、そしてそれがうまく言ったときそれらの経験が自信となり、次へとむかい、終には親を超えていける、それがあらまほしい姿ではないかと思う。中小企業というのは、決定権は社長だけにあり、そのカリスマ性でうまくいっているところがある。次への継承ということを考えれば、親としてもう少し辛抱強くあるべきかもと思った。携帯電話が悪いわけではないけど、より便利な道具なので、自制はなかなかできにくいかもと思ったものである。

神戸港から船にのって、明石海峡大橋のあたりまで行った。四国へは大きい橋が3本もある。すると行き来は、本州と一体化してとても便利になったのだけれど、四国という特性がなくなってきたらしい。四国支店、出張所というのがいらなくなって、たとえば大阪支店の一部になってきて、経済的にはとてもさびれてきたとのことである。便利になって都会が入り込んできたのはいいが、田舎は田舎として生きていけない。若い人だけがでていってしまうのである。

山の中に大きな道路を作ると、念願の道路が・・・といいながら、実際は、その道路ができたのでもう町の一部、車にのって町にどっとでてきたのは若い人、山には年寄りだけが残ってしまう。便利さを享受できたのは誰なのか。かえって皆生き難くなってきてしまった。便利さの功罪を考えてみるべきではないか。

北陸新幹線、みな躍起になって作ることになっている。できあがったら、もう北陸でなくなるのじゃないのかな。新幹線いりませんなどとはいえないもんな。

日本列島改造論、こんなの過去の亡霊だと思っていたけど、何十年もかかって実現しているのでは。

便利さの功罪を考えて、便利でなくともいい。ゆっくりでいいです。多少の不便さは寧ろ楽しみますなんていうのは間違っているのだろうか。

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人生の午後

我が家は主人、息子、私の3人家族。息子は隣の県で勤務先の職員宿舎に住んでいて、一週に一度くらいしか帰ってこない。つまりはほとんど二人暮らしになってしまった。二人になってしまって、話相手も相手だけ、朝しばらくしか顔をあわせないが、それでも相手は同一。

最近私が仕事であるいは遊びで出かけることがあり、家を留守にすることがあると、今までは考えられなかったことだけど、我が家に帰ってくると、台所はすっきり片付けてあり、ぴかぴかになっていたりする。洗濯をちゃんとしてあるとか、冷蔵庫の中を片付けて、野菜室などはみょうにきれいになっていたりするのです。もっとも野菜が腐っていたと小言もとんでくるのだけど、どういう風の吹き回し?と思ってしまう。

お互い人生の午後になってきたことは事実。弟は闘病中。いつ何時、病気に取り付かれるかもしれず、さらに、今更猛妻、愚妻(思っているだろうことで、なんぼなんでも言われたことはない)であっても、とりかえばやと思っても取替えがきくものでもなく、お互いいたわりながら、長持ちする方向にいったほうがお徳と思ったものか。それとも大分くたびれてきた古女房をいたわっていたほうが、居心地もいいとさとったものか、そこらは不明であるけど、妙にものわかりがよくなってきた。もちろん「ありがとう」の言葉は忘れず、相手をもちあげておくにこしたことなしに徹しているけど、そしてとても有難いと思っているけど、嬉しさの反面、気弱になったような気がして、少し寂しい。

でかける時にもよりの駅まで送ってくれることも簡単にひきうけてくれる。若い時は仕事一筋で殺気立っていたものか、それともそんなことをするなどとは男の沽券にかかわると思ったものか、最近は余裕があるようになったものかとも思う。若いときに、こんな思いやりやら、優しさがあれば、こんな猛妻にならずにすんだのにと思うとおかしい。自分でできることは自分でする、自分の裁量のうちのことを目一杯にする、こんな基本的な生き方にいきあたったのは、若い時には少しも親切ではなく、自分のことを手伝いなんかひとつもしてくれなかったおかげであろうと思う。

今人生の午後になろうとして、殺気立った人生は少しおだやかになり、お互いがいたわる時を迎えつつあるのかもしれない。もっとも娘に言わせれば、あんなにわがままな父を残して絶対私に先に逝かないでと強くいっている。

わがままも頑固もやりすごすことができるようになるには、相当の時間と習練がいったのです。

今更、子供に頼るわけにもいかず、お互い上手に馴れ合いながら、午後の時を充実したものとして過ごしていきたいと思う。

それにしても若い時の性格って、それが永久のものではない。若いときに、姑は本当はやさしい子のはずだったのにと、殺気立ってぎすぎすしている息子のことを思いやって言ったもので、あんなにぎすぎすしているのは嫁である私のせいかと気色ばんだこともあったけど、今ようやく姑の言っていた、子供の時分の性格に戻ってきたらしい。これって老化か?

二人しかいない家内、ぎすぎすと喧嘩しているよりもお互い穏やかなほうが過ごしいいに決まっている。お互い大人になったというべきかも。なんだかおかしい。

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十六夜

今日は月齢からいうと十六夜になるのですね。ただし雨たれこめて、厚き雲の向こうに十六夜の月が隠れているにちがいない。

「十六夜日記」ってありました。先妻の子が旦那遺言の荘園をくれない、後妻さん、わが子のために京より鎌倉に裁判にと訴えにいく、下向の日記でした。鎌倉時代、阿仏尼の作でした。どこの本でみかけたのだったか、覚えていないのですが、そして「古典文学体系」を調べようとしたのですが、どうしたことか載っていない、そんなわけで判然とはしないのですが、下向する阿仏尼の姿がありました。前の時代、平安時代の引目鉤鼻ののっぺりした顔ではなく、そして母であるというところからか、意志の強そうなお顔ではありました。

十六夜という月にひかれてとあるけれど、子を持つ母とすれば、曇りなき満月をこえ、やや欠け、さらにたゆとうとうような月にひかれてとあるのは、若い人でなく、実際の自分の年とか境涯にてらして十六夜になったものだろうと思う。題名は本人がつけたものではないが、主題に十六夜をもってくるあたり、文学的素養もたいしたものだと思う。

意志の強そうな、なよなよしているとは言いがたい前時代の女性とは違う顔、あの顔誰かに似ている。思い出してみれば、私がひそかに大仏君と呼んでいる最近一歳になったばかりの孫の顔と似ている。意志の強そうな、ちょっと釣り目のがっちりとした顔、そうだ、孫のほうちゃんに似ていると思っていた。

ひそかに大仏君と呼んでいた孫、娘にいわせれば、一番おばあちゃんの私に似ているという、そっくりじゃない。え~、大仏に似ている、うわ~。

ということは阿仏尼に私似ている?京からわが子のために遠いとも思わず、十六夜の月に誘われていく、しっかりもののおっかさん、似ているのかな。

もう一度あの絵を見たいけど、どこで見たのかわからない。こりゃどうあっても探さなきゃ。でも阿仏尼にというのは、後妻さんに望まれるほどにきれいだったと書いてあったような気もする。

雲間にかくれた十六夜の月、ちっともロマンチックなことを思わず、阿仏尼のことが気になる。

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カブをあげる

かぶってたって、焦げ付き心配のサブプライムローンに端を発した、世界同時株安、そしてFRBの金利引下げ、そうなので日銀は今金利をあげることができず、毎日株価は乱高下、などの頭の痛くなる株の話ではなく、わがやの男のかぶの話。カブです。

夜水の流れる音、ありゃ、トイレの水が流れっぱなし。蓋をあけてみても、今のトイレは浮きがあがったり下がったりの原理はかわらないだろうけど、なんだかわからない線が色々あって、面倒。うまくいかない。主人は寝てしまったあと。プラスドライバー、マイナスドライバーも持ってきたけれど、うまくいかない。息子に頼むもうまくいかない。水の元を切って、使用禁止、明日にでも業者頼むしかない。

翌朝、主人浮きの切れたところを水糸で縛ることで、解決。「難しくないから、また言って」と得意そう。トイレのトラブルは、実際生活ではしょっちゅうの仕事、業者のやりかたをよく見ていたらしい。得意な主人に「ありがとう」と言わざるをえない。

こんどは私のPCが動かなくなった。インターネットにつながらないのである。こうなりゃ、息子の出番。早くからPCを使っていたこともあり、初期のPC今ほど扱いが簡単ではないのに、デスクトップ型、苦心惨憺してほとんどのトラブルは自分で解決してきた実績あり。自分のアップルのPCを横において、あれやこれやと二時間、直った。もう元がとれただろうから、買い替えも考えてみたらとの言葉。これにも「ありがとう」というしかない。

主人、え~、そんな趣味あったっけ、なにを撮るのといいたいくらいの、なんだか立派な一眼レフのデジカメを買った。シャッター音が軽快で気持ちいいだろうと悦にいっている。使いこなせるんですか~?何を撮るの?の私のからかいは無視。

男同士、メカが新しくなると目を輝かせて話しに花が咲く。「そんな値段よりも高いんだぞ、この茶碗」と横で騒いでいても無視される。

機械系統がこわれると、くやしいけれどさっぱり直せない。そのたびに我が家の男のカブは上がる。このカブは乱高下もしないし、えらいささやかなカブなんだけど、絶対大事なカブなのです。
男がいばれる、男の価値をみせることができる機械の故障ではある。

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百貨店で

大阪で電車時間があると駅周辺の百貨店に入ることが多い。文化サロンで誰かの個展をやっていることが多く、それを見るのが面白いから。これは値段がついているので、百貨店での個展の作家の値段がしれるのも面白いし、売れ筋の値段というものもわかるし、なによりも知らない作家さんの業績を垣間見るのも面白い。

今回はどなたかのスケッチ展であった。水墨タッチのやわらかい写実というか、誰にもわかりやすい、どこにでも飾れるといった趣のもので、たくさんの人で賑わっていたし、赤丸ついているものも多かった。10万円ぐらいのものがほとんど、百貨店では売れ筋の値段なのねと思いながら、その横にあった道具屋のコーナーに抹茶椀が、800万円!現存する作家のもの、ひえ~~、あんな値段て現存の作家のものであるんだと驚き。

いつも催事が行われる階に、催事ではなく常設になったらしい着物の古物屋があった。着物の古物の話はあちこちで聞いていたから、あるんだと思ったけれど、ぺらぺらと赤札をつけてある着物の山の値段をみて驚いた。前に山積みになっているものに限るけれど、1000円から5000円。こんなのになるんだと驚いてみていたら、箪笥のこやしになっているよりもと店員さんが話しかけてきた。奥の方にあるのは、新古物と思われるもの。それらの品物にかかった手間のことを知っている身には、本当に悲しい値段の山である。

新築中古の家とか新古車なんてあるから、新古物の着物があっても不思議ではなかろうが、新築中古の家とか、新古車などは、まともの値段で売ったあとの客にうけなかった間取りの家とか、業者間同志の販売見込みの失敗などの車であったりして、ともかくはまともに売れるものがあっての、はじめからのロス部分というふうに考えられるので、そんなに心が痛むということはない。

職人さんが技術を時間をかけて作ったものの事情を知っている身には今の呉服の業界にはどうにもならないのかもと思いながら、心が痛む。昔からB反なんて言葉はあり、傷物のことをいったのだが、それは職人さんの技術と知恵でそんなにあるものではなく、業者間でのみ流通するものであった。今B反市などと称して山積みにして催事場で売っているのだが、あんなにB反というものがはじめから出るはずもない。

心ある職人さんのことを思うと、現状は気の毒でならない。かといって、今の生活、着物に戻れるわけもなく、民族衣装の位置に甘んじていくしかないのか。一部に着物愛好家のかたも多いが、ほとんどが古物の中から、自分の感性で選んできていらっしゃるかたがた、それは生地の命をいとおしむ、あるいはフアッションの一形態で、新しいものを次々とというわけではなく、着物業界の技術の継承という話とは無縁である。

技術の取得に血のにじむような習練のはてに、なんとか維持できている技術の継承者は高齢で、その技術というのはもう継承されないことも多いだろう。

着物にかぎらず、技術をようするものが、世界標準という言葉のもとに、圧倒的な海外物のやすいものに蹂躙されている現状は、職人さんと言う人の気持ちを萎えさせていることだろう。あらゆる文化というものは、職人さんのたくまざる力が結晶しての作品の集積であり、知の進歩というものも、頭で考えたことを形にする職人さんの技があってこそのこと。職人さんの世界にもっと力を注いであげるべきと心から思う。

呉服に携わっていたのをほとんど止めたのは、主人の人の喜ばないものを売ってそんな仕事に意義を見出せないという言葉に要約されるが、本当はとても好きな業界であった。なにしろきれいであったし、人とのやりとりも好きであったから。

どうにもならないと知りつつ、呉服業界にかぎらず、職人さんの世界をどうにかしてあげたい、どうにかすべきと心から思う。日本は文化程度の低い国になりそうな気がする。そして文化の高さこそ、民度の高さに直結し、ゆとりある優しい国になるのではないか。すぐれた技術の継承ということと、文化の高さは直結していると思う。痛ましい着物の新古物の世界、見たくない現状であった。

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バスの車窓から

関西に出張、久しぶりに京都の美術館に。お茶関係の美術館5つもまわったのだが、これはバスでまわったもの。

京都はバス網が細かくはりめぐされ、きちんと調べていけば、みんなバスで回れる。5つまわったけれど、次々とバスは乗り換えなしで、一回ずつその場所にたどりつけた。

バスで町をじっくりまわったのだが、窓から町の様相が見えて都会と田舎の違いが見えたような気がした。仕事で大阪にはしょっちゅう出かけるが、ここでは移動はほとんど地下鉄、町の様子は見えない。点から点の移動である。それなので都会の町と田舎の町との違いは、賑やかというだけの違いのように感じていた。

色々まわるバスにじっくり乗っていると、なにしろ都会のこととて、バスはのろのろ走りである。じっくり町の様子が見える。

都会のこととて、古くからありそうな軒並みがびっしり。そんなに大きな家、店もあんまりない。あんな商売の店が今でも存続してるんだな、と思ってよくみていると、田舎の町ではもう存続ができなくなった小さな店が、そして業種も今でもあるんだなと思うような店がいっぱいである。軒をつらねているわけだから、車はあるだろうけど、一家に何台もとは考えにくい。車の置くところなんてなさそうだ。

田舎では家族の数だけどころか、もっと余計に車を所有している家も多い。知り合いの家では、家族6人、そのうちおばあちゃんは80代、免許は持っていない。免許所有者5人なのに、車は7台もある。通勤用は働きにでている人の数5台、兼業農家なので野菜出荷のための軽トラック一台、通勤なのだが仕事のものを載せて行きたいときのトラック一台、計7台である。特別珍しい話ではない。

田舎の町は、今や、勤めにいくための家族の生活の場としての家、国道、県道沿いの大型ショッピング、そのまわりの衛星的な配置の各種の大型の店、道沿いの食べ物や様々、それも都会からのチエーン店が多い。競争原理をそのまま働かせてそれにまかせてしまったので、ほとんどの町の有様がこうなってしまったのである。

田舎は遅れているのではなく、今や、未来都市みたいなものではないか。京都の街中をとことこバスは走る。人の息遣いが感じられる、小さな店がまだまだ元気そうだ。町というのは本来そうあるべきだったのでは。田舎では車でどこでもいける、まったくの車社会である。老齢化が急速にすすみ、車社会から降りたい、もっとスローにと思っても現実はむずかしい。車社会になってしまったので、公共交通網はいまや息も絶え絶え。歩いてものを買いにいこうにも店はなくなってしまっている。食べていけないので、店の人が後継者を育てられないのである。かくして、勤め人の住宅になってしまっていく。

昔、晴耕雨読などと田園生活をたたえる言葉もあったけど、今や風前の灯火。

田舎というのは、都会の遅れたものでは決してない。都会のごちゃごちゃした密集地では、昔のように生きていける。人情のやりとりはわからないけど生きていけそうである。

田舎という言葉には、のんびりしたというような意味がありそうな気がするけど。、実際は都会よりも時代が前にいってしまっているのではなかろうかな。

狭いところに人がいっぱいいて、ごちゃごちゃしているところが都会かもしれないけど、実は昔とあんまりかわっていないのではなかろうかなと思ったのである。

どっちがいいとか、悪いとかではないけど、非常にかかえている問題が違いすぎてお互いがわかりあうなんてのは難しいかもと思う。

田舎も変わった。田舎で年をとるというのはなかなか難しいかもと思う。

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機能障害

機能障害として職を放り出した総理大臣が入院されたとのこと。心療内科の領域だろう。すごいストレスがかかれば、そういう状態になることはままあるらしい。かくいう私もそうなったことがある。

生老病死の四苦八苦が、人間にとってあがらえないつらさとお釈迦さまも仰っている。病気はいつかふりかかることではあるが、それがわが子であり、かなりの重篤の病気ですと言われたときに、現実のこととも思えず、機能障害をおこしたものです。もう20年前のことです。下痢、不眠、頭痛、現実感のないふわふわ感、みないっしょにきました。娘をどうにかしなきゃならないのに、自分がこんな有様ではなんとする、病院にいきました。私の話を聞いて、医者はいいましたね。突然の話で体が驚いて、そのストレスに耐え切れず反応しているもの、精神安定剤でもあげましょうか。人間の体って、頭、腹、もう体中、一時に全部悪くなるようにはできていませんよ。

なんとだらしない、精神安定剤の処方!、そんなのはいりません。自分で治します。気のせいなんだから頑張らなきゃ、今ひどいのは自分でなくて娘のほうなのに。そう思って薬は一切なし。気のせいの不調だから、気持ちで治しました。

あたふたのうちに、よいお医者さんにめぐりあい、幸い5ヶ月の入院を超えて娘は退院、学校にも復帰し、本当に幸せなことに元気な生活をおくり、結婚もし子供にも恵まれました。有難いことです。

その後、その体験にまさるとも劣らぬ事態をなんどか経験しました。その度に、自分の気持ちのありようをためされているのだ、ここが踏ん張りどころ、後ろ向きの気持ちではなく、少しでも前にいけるように、具体的になにをしたらよかろうと気持ちを奮い立たして頑張ったものでした。おかげでふてぶてしくなって可愛げのない人間になったとは思いますが、最初の大ショックの経験のおかげで、やりすごすこつを学んだと思います。

私の体の反応は、お釈迦様もいってらっしゃる、四苦八苦のうちの最たるもので、人間としてごく当たり前の反応であり、その乗り越え方も、対処の仕方もみな先人が示してくださっているものであった。普通の人間であったということかもしれない。

総理大臣の今回の入院、人間として根源的にもっている悩みではなく、職にかんしてのプレッシャーにおしつぶされたとのこと。これこそ、その職におれる人ではなかった、そんな地位、職にいようと思うほどの人ならば、当然それくらいのプレッシャーはあるものであり、そのストレスに耐える強さはあって当たり前のことであった。そぅいうプレッシャーに耐える強さを持っているかどうかは、わからなかったものか。これは自分がわかっているべきではないのか、病気になるほどの大変なことなのねと同情はするものの、精神のもろさに唖然とする。頭のよしあしとは無縁な人間としての底力、一体に今弱まっているのかもと思うことも多い。

姑が脳梗塞の後遺症で仮面うつ病になり、どう対処していいかわからず、精神科の先生に相談したときに、子供の時に、本人が乗り越えるべきもろもろのことを、まわりの大人が全部さきまわってしてやってしまい、本人自身がのりこえてこなかったとき、自分にふりかかったストレスにどう対処していいかわからず、対応がめちゃくちゃになってしまうのです。それが原因でのうつ病ですと言われ、対処のしかたを習ったことがある。自分自身のことは自分でのりこえる、その体験が大事といわれ、子供の育て方の基本を指摘されたと思ったもの。

総理大臣は、政治家としてさまざまな経験を超えてきて、今の地位につかれたもの。美しいなどの抽象的な夢を語る理想主義的なところを現実化する底力はなかったのかも。

人間として四苦八苦する、人間にはどうしても与えられたものにたいしてのあがらい、あせり、悩みには、誰だって共感できるし、その対処の仕方も先輩はいて、参考にはできる。

仕事の中からの悩み、プレッシャーはそれぞれがそれぞれの位置、場所で受けるもの、自分が超えられるからここにあると頑張るべきもの。乗り越えられないならば、はじめからそんな位置に上るべきでない、今回の機能障害、どうしたって同情できない。だらしないと思うばかりである。人間の根源的な悩みでないもんな。

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徒然草

本屋で10代に読んでおきたい角川文庫シリーズが山積み。10代でね。「徒然草」はたしかに高校生の時に古典の授業で学びました。中味というよりも、古文の文法の勉強みたいなもの。勉強したとは言いがたい。私が持ってるのは「古典文学大系」の中で。これでは気楽に読めない。読み返してみよう。

これが文法なんて無視して読んでいくと、じつに面白い。高校生の時とちがって、兼好のいうちょっとシニカルなものの見方、人間観察など、実感をもってよく見えるのである。兼好が世捨て人となったのは30代とのこと。人間観察などは現代にも通じる、そうそう、という本質が見える。兼好のように人間の本質をするどく直感的につかめる人は、やはり天才というべきなのだろう。その本質ともいうべきさまざまな論が、ようやく今になって頷けるようになった。そうなのか、観念ではなく、実感としてたしかにそうだよね、と思うことが多い。兼好のような天才ではない我が身は、それなりの年月をかけてようやく兼好のいうことが少しはわかるようになったということになる。

高校生のときには、兼好のいうことは、言葉として格好がいいと思って、わかったように思っていたのであった。もちろん、今でも兼好その人に迫れたかというと自信はないが、高校生の時よりも実感できることが多くなったという程度である。

30代で人間の本質をぐいとつかんだ兼好。隠者という立場は、この世の外にあり、世の中を他所ながらみるという自由できままな立場というものであろうが、似非隠者、悟り済ましたると見える僧をおちょくっているとしか見えない段もあり、他所ながらにいるということで、必ずしも世の中が見えていない人もいっぱいいたことからも、やはり兼好は天才であろう。

様々な経験や、悩み、痛い目にあって、ようやく兼好のいう人間が見えてきたかなである。高校生の時に読んでおいてもちろん悪いものではないが、色々な年代に思い出しては読み返せば、その年代なりの解釈、わかりかたがあると思う。

昔読んだ古典をもう一回味わいたいと思ったとき、主語がはっきりせず、時間の経過もはっきりしない文は、たしかに難しいのであるが、名文の一部でも頭に残っていれば、また手にして見ようと思ったりする。

高校生のときには、名文のながれるような美しさを、文法というはさみで切るがごとき扱いは無粋というか、面白さを殺いでいると思ったのだが、また多少の古典の知識がないと、読み返そうという気にもなれず、また読み返してもまったくわからないということになる。高校生の古典の扱いって難しい。

中味を探訪する古典の旅、それには「徒然草」が一番かも。面白さを再発見している。

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さてブログ

ブログってウエブ上の日記とされているようだが、これだけ爆発的に増えてくると実際は・・・実に様々である。

日記ならばモノローグの言葉である。ひとりごとの言葉である。言葉にはモノローグとダイアローグの言葉とがある。ダイアローグとは対話の言葉。自分の内部で完結している「モノローグの言葉」と外との関係を作る「ダイアローグの言葉」の二種類がある。書き言葉に話言葉といいかえてもいいと思う。

さてブログってどうなんだろう。モノローグの世界にダイアローグが重なってと言う風に見えるけれど、モノローグの世界にコメントというダイアローグの世界を待っているふうに見えているけれど、自分のモノローグの世界を補強するためにだけしか使ってない、少しでも方向が違うと間違っていると言う人もいる。あくまでもモノローグの世界でしかない。それならば誰も干渉できないいわゆる日記にしていたほうがいいのではと思ってしまう。それならばなぜコメントを入れてもいいというダイアログの世界の形にしているのか、それは自分が寂しい、あるいは、うなずいてくれる人を見つけたいという期待があるばかりである。

知っている世界を人に伝えたい、知識を披露したい人もたくさんいる。こういう人にはブログというのは、上手に機能していると思う。

ミクシーなどはミクシー繋がりが表わされていて、ミク友と称しているのだけれど、その友の繋がりで何十人もさらに何百人も繋がっていらっしゃるかたも多い。実際はその繋がりにちょっと覗いて、ちょっとコメントしてという、あくまでも軽さがないととても処理しきれないのではと思ってしまう。

双方向で何かを掘り下げることができるなんていうことも言われていたけど、実際にそんなことができている人がいるのだろうか。

書くことによって、モノローグの世界を内部に蓄積できる、あるいは掘り下げることができるなんて思っていたけど、実際はどうだろう。わけのわからない不満がたまってくる。別に誰がとか、どういうことがということではないけど、釈然としない。

熱心にブログを書いてらしたと思ったら、だんだん、記事が少なくなっていつか止めてしまうという方も多いようだ。面白くなければ、コメントを寄せるひとがいなくなって、淘汰されるのです、などと豪語した人もいるが、それは違うと思う。あまりの薄さが濃くなっていかない、たんなる暇つぶしになっていって耐えられなくなったのだと思う人もいると思う。

声高にものを言っている人は、ダイアローグの世界がうまく機能しているのかと思えば、ただたんに自分のモノローグを一方的に言っているだけで、仲間と一緒に条件反射的に言葉が生まれているだけで、ダイアローグになっていない。つまりは自分の確たる意見というのはあるのですか?になっていそう。

ブログというものの位置ってなんだろうと思う。先人たちの素晴らしい日記文学にふれると、その個人の魅力的なことといったらない。

その位置もわからず、どうすれば、どの位置が、と疑問を抱えながら、思いつきをたまに書いているだけである。

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虫の音

涼しくなってきた。蜩の鳴き声がする。夜になると庭ではさまざまな虫の鳴き声がする。「ちちよ、ちちよ」と鳴き、あわれであると書かれていたのは、「枕草子」であったかな。

ひぐらしが鳴く音色を、娘がごく小さいときに「おかあさん、セミが鳴いてるね。」「なんといって鳴いてる?」「ちょこちょこへい、ちょこちょこへい、って」この娘はからすが鳴いてるのを「あや、あや」とその時分言っていたもの。字も読めないし、本からや、ほかからの知識ではない、すのまんまの本人が聞いた通りの鳴き声であった。そんなふうに聞こえるんだ、こりゃ詩人の才能あるんじゃなかろうかと親ばかは一瞬思ったものだが、もちろんそんな才能はなく、今ではからすは、かーかーなんて言っている。ちょこちょこへい、ちょこちょこへいには非常に驚き、なるほどと思ったものだから、今では私自身が、ちょこちょこへい、ちょこちょこへいにしか聞こえない。

小さい時には、誰だって詩人らしい才能の片鱗を見せるものだが、成長するとあの輝いていたとおぼしき個性はどこにこそいってしまう。虫の鳴きねなんて、多分だれに聞いてもかわらない、それは多分本に書いてあったとか、いつの間にか耳にはいっていたという標準的な鳴き声になってしまうのだろう。今はたかが虫の鳴きねであるけど、もしかして、勉強をするさせることで個性の尊重なんて言っているけど、実は持ってうまれた豊かな個性というのは、矯められて無個性にしてしまっていることが多いのではなかろうかと思う。

今、風呂にはいって外から聞こえる虫の鳴き声をしみじみ聞いてみようとしても、どぅしてもどこかで聞いていた鳴きねにしか聞こえない。自分なりの音にならないかと思っても知っている音にしか聞こえない。

成長というのはなんだろうと思ってしまう。ちっちゃい時の無垢なもの、それは個性とはいえないしろものであろうけど、豊かな耳を持っていたのは事実である。豊かな耳はいっぱいのものを聞いて、好奇心にみちていた目は、いっぱいのものを見て、多分知っていることは増えただろうけど、きらめいていた耳でもなく目でもなく、どこかで、だれかが作った知識の後追いになってしまっている。こんなのは豊かというのではないだろうな。

蜩が鳴いている、カラスが鳴いている、蛙がないている、それに気もつかないというよりもましかと思いつつ、小さい時の子供の面影をあとおいしている。秋になったな~。

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行く夏を惜しむ

行く春を近江の人と惜しみけり 
と芭蕉は詠んでいる。それかあらぬか「惜春」という言葉はあるが、「惜夏」なんて言葉は聞いたことがない。
「冬去りて春の来るにあらず、」「雪間の草の春」などという季節の移り変わりの微妙な美しさを古来愛でている。今頃の夏と秋の端境にもうつろう季節の美しさが感得できるのではないだろうか。

「惜夏」なんて言葉はないかもしれないが、この夏の暑さをくぐりぬけてようやく暑さもやわらいできたこの時期、行く夏を惜しんでみようかと思う。

まずは、あえの風、「早稲の香や わけいる右は有磯海」と「奥の細道」にある有磯海から吹いてくる風が頬に感じられると、あ~秋になったんだね~と思う。

つんざくような油セミの鳴き声はいつか遠のき、夕方になると、蜩のなき声、今日のような25℃にしかあがらないと、その蜩の鳴き声も聞かれない。庭は静かに沈黙して、静といいたいところであるが、夏雨不足で水撒きもおいつかず、椿の葉は茶色く変色して、木々も息絶え絶えではあるが、この夏をこえてほっとした雰囲気が漂っているようにも見える。

畑では、夏野菜が最後の賑わいというか、力ふりしぼって最後とばかりにどっさり実をならせている。これで最後だからと採りにきてと知り合いから言われていってみれば、胡瓜などは山ほど、その分味が薄まってきたのかなという感じ。少人数では食べ切れない。トマトも真っ赤に熟れて、どうしても食べ切れない。野菜は徐々にならなくなるのではなく、蝋燭の最後のひらめきみたいなもので、盛大になってそれで力尽きるらしい。

夜は涼しい。クーラーは必要もなく、窓も開けたままでは寝冷えしそう。竹のシーツもしまおう。

そして今日は部屋の掛け物を架け替えた。座敷は朝顔の絵から、秋草の絵に、待合に使っている部屋には、月を連想させる円相に、それには無垢と書いてある。茶室には、頼山陽の「鳥声」という漢詩を。これだけで秋になったんだね~という気がする。

夏の疲れがやはりあるのかも。プールに行って泳げば、午後は昼寝をしたくなる。これも季節の変わり目かも。

先人のような美しい季節の移り変わりはなかなか見つけられない。ただ、夏と言うのはようやく終わるとほっとすると同時に、あの灼熱が押さえ込まれたかとやはり惜別の思いがするというか、どんなに暴れまわっても季節のめぐりにはあがらえないんだという当たり前のことではあるけど、反抗しても無駄ですよとしみじみはするのです。

秋、掛け物をかけかえると部屋の様相は一編。なにか計画をたてたいと思いをふるいおこしている。

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姪の結婚式

Dscf0014 8月26日、姪の結婚式でした。父親が入院、闘病中。式にこぎつけるのにみんな必死、一生懸命でした。弟は気力ふりしぼり、式はつつがなく終わったのでした。参列しただけの私でさえ、力が入り、疲れました。

幸せになって欲しいと心から願っております。

Dscf0021 結婚式っていうと、料理今一のところが多いのですが、今回は非常においしい料理でした。さらにスタッフの教育が行き届いていて、気持ちのいい進行ぶりでした。その分、まったくプロの仕事と言う感じで、ほほえましい、ぎくしゃくした式ではなく、最近の結婚式事情も垣間見えたものです。

Dscf0035 式に臨んで新郎の母親という人から、先生と声をかけられ驚きました。その昔、私教員しておりました折の教え子だったとか、まったく驚きました。しかも私記憶になし、恥じ入るばかり。え~、親戚になるのですか、驚き。

今回の式では姪が挨拶したのですが、そのスピーチは心うつなかなかのものだったのですが、ちょっと驚いたことがあります。

姪は保育士、母親は小学校教員である。母親のあとを追いかけたかのような進路の選び方であった。ただ小さい子供が好きということで、普通に国立大学を出てから、保育専門学校を出て保育士の道に。

姪のスピーチ
 「自分は負けず嫌いである。それは母が負けてたまるか、といつも頑張って仕事に取り組んでいる姿をみて、それに習いたいと思ったから。ただ、仕事優先の母に振り返って欲しくて、自分に構ってほしくて、わがままも言って困らせたこともあったけど、本当は尊敬もしているし、大好きであった。
父は家族のために、文句もいわず、いつもやさしくみんなを包んでくれた。そんな父にいつも安心感があった。
この二人の両親のような家族を築きたく、父に似たやさしい、Kさんをみつけることができた。二人で両親のような家庭を築きたい。10年後、20年後をめざして元気でいて欲しい。それが唯一の私の望みです。」
こんなようなスピーチであった。

姪は性格のいい子で、しっかりものである。
弟が闘病中でもあり、さらに、新郎は婿としてきてくださったものであり、話がまとまった時には闘病になり、新居の準備、これは弟が家を買い、それをリホーム、業者さんとの話し合い、引越し、道具の準備、さらに式など、姪がほとんど頑張ってこぎつけたもの。なるほど、勝気で負けず嫌い。

仕事の頑張りは母親が目標、そしてやさしい父。

なんだかひところの父、母が逆転している感じ、
スピーチを聞きながら、仕事人間はこの頃は女?仕事の目標は母親かと複雑な気持ちになったのでした。

両親が目標の家庭を築きたい、なかなか言ってもらえる言葉ではない。弟が気力ふりしぼり、母親がいつか用意しておいた絽の紋付一式で望んだ甲斐があったというものである。
私もかって母が40年も前に嫁入りのときにもたせてくれた、絽の留袖を柄も、身幅も目一杯であったけど、母に見せたくて始めて着たものである。

姪が幸せになることを心より願っている。そして弟が姪が望んだように元気になってほしいとこちらも心より願っている。

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古道具屋で

古道具屋で面白いものを発見、鉄製の古いクルスである。蝋燭たてのようなものに懸けてあるもので、道具屋によれば隠れキリシタンのものであろうとのことである。毎日祈りをささげた人の思いがつまっていそうなクルス、触ってそんな人の思いを冒涜したようなことになれば大変と、そっと見つめるだけ。

何百年もひっそりと守られてきた信仰のあかし、明治時代になってキリスト教があらためてもたらされた時には、信仰の形は随分違っていたということだが、それにしても何百年も守られてきたというのは驚きである。信仰というのは一度根付くと非常に保守的なものなのねと思ったものである。

旧のロシア、ソ連といっていた時に、中央アジア、いまではウズベキスタンといわれている所に旅行したことがある。先日パキスタン、イオスラマバードでモスクに立てこもったイスラム原理主義者のたてこもりで、軍が突入、大惨事になった事件があった。そのときに宗教学校も併設されていて、そこが事件の舞台に。

ウズベキスタンのモスクを色々見物してきた、中央アジアの美しい青いタイルのモスクに感激して、そのときに併設されている宗教学校は使われてもいないし、ミナレットから祈りを知らせるアザーンも流れていなかった。それで、その地での宗教というのはどんなのでしょうと聞いてみた。返事。社会主義の国では宗教などは信じているものはいません。年寄りの迷信みたいなものです。だから、モスク、ミナレット、学校それらは、遺産ですという話であった。

宗教というのは心の問題であろうと思っていた私は驚いたものである。そして信教の自由をうたっている憲法というのは、大事なものなのだと改めて思った。宗教というものを否定している社会って、住みにくいのではと旅行しながらその社会の実際を見たような気になっていた。

今ソ連から独立した中央アジアでは、民族主義の台頭とイスラム教が台頭しているらしい。

宗教というのは、押さえ込んでも、何百年でもひっそりと眠っているがごときであり、それが目覚めるとものすごいエネルギーになるのだなと改めて気付く。

何百年も祈りのために大事にされていたクルス。これがまたそれを大事にする人にめぐり合うことができるだろうか。古道具屋には色々なことを思い起すもの、考えさせられるもの多数。何かを手がかりに思いをめぐらしているのは楽しい。

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新発見

弟が入院して、本格的な治療に突入、日曜日に弟の家族が行ったときには、副作用だからだったのか、本人はひどくつらがっていたとか、弟の家族は青くなりがっかりして私のところのよっていき報告していった。

せめて力づけるぐらいならばと、病院に。今日は気分もよしと、外の空気をすいに外出したいと願い出ていたところに行った。近くにと思ったのだが、車できていることでもあり、本人の希望を聞いてあげることに。

外出の理由。なんとしましょう、看護婦さんが「気分転換とでも」気分転換という理由で外出を認められるようになったのですか?驚いた。病院は随分違ってきている。まず、病気というのは体の一部が病気になったのであり、それを直すという方向から、病気になったのは体の一部かもしれないけど、病気になったのを直すのは全身的、直すのは医療関係者全員のチーム医療、そしてなによりも病にかかったその人が主役となるべく考えられているのである。病院にしばりつけておくのではなく、本人の気持ちに沿い、本人の意欲がわくようになるべく本人の希望を聞き入れる方向にあるらしい。

病気の主役は本人である。インフオームド、コンセントをしっかりするようになっているのである。そのかわり、おまかせというわけにはいかない。勉強しなきゃならないし、決断もしなきゃならない、事態にたいしてしっかりしなきゃというところである。

本人にどこに行きたいと聞けば、「宮本三郎美術館」にという。弟とは趣味のはなしなどはしたことがない。洋画が好きだったなんて、初めて聞いた。弟の一面を新発見である。私はお茶を趣味として、美術館はもっぱら焼き物、工芸の世界のものが好きである。そこで私の趣味の「中村美術館」にまずは行き、それから小松の「宮本三郎美術館」に。お互いの趣味を披露しあったものである。母親が健在でもあり、実家には近いこともあり、よく行くのだけれど、弟というのは近い関係のような気がするが、実は案外遠く、実際の生活だけの関係であったような気がする。妹とは同性でもあり、色々話し合うこともあり、お互いはよくわかっていると思う。

今回男の兄弟というのは、私だけかもしれないけど、案外趣味程度のことさえもわかっていなかった、案外遠い人であったなと驚いている。洋画は見るのは好きなのはもちろんだけど、下手な横好きで描いていたこともあったそうな。私は見るのは嫌いというわけではないけど、どっちかというと工芸の分野か焼き物が好き。

お互いの趣味の世界を見せ合い、へ~そうなんだと新発見。病院に入院している弟を連れ出し、小さな遠足を実行。つらい闘病生活の少しでも慰めになってくれたら嬉しい。こんな機会は、闘病という異常な状態になって初めて得られたもの。ちょっとしたきっかけがないと分かり合えないということもある。

今日は病人が病気に立ち向かうスタイルが、随分前とはちがうことを、聞いてはいたけど、初めて具体的に知ったことは新しい発見であった。さらに、弟のことを少しは知ったことも嬉しい発見であった。本人のことを少しでもわかってあげて、なるべく力になってやりたいと願っている。

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本を読む

読書は好きなので毎日なにかしら読んでいる。日中でも蛍光灯の下なのだけれど、眼病を長い間患っているからか、夜は同じく蛍光灯の下でも本は読めない。昼のほうが明るい?自分でも変だなと思っている。

最近の小説はあまり好きなのはない、その分随筆、エッセイの読む量が多い。あまりに設定がきちんとしていて、それは小説のプロット、あるいはテーマを表わす設定が間違いのないように張り巡らされているので、構成はきちんとしているのだろうけど、なにか工業製品みたいな硬質な感じがするとか、心理の襞があいまいでなく、たゆとう感じのあいまいな気持ちというものがあるだろうにと思ったりして、ついて行けない感じなのである。多分私の脳味噌が今時でないっていうことなんだろうと思う。

随筆、エッセイ、ものの見方がなるほどとか、その人の気持ちのありかた、心理のあやがその人の呼吸という感じで共感できる人も多い。それよりも文章を書くのがうまいな~と思ったり、あるいはものすごい知識なのに、それがほどよいウイットにくるまれて達意の文章を書く人をみつけると、本当に素直に尊敬してしまう。

小説だと作者が直接現れることはない、それは登場人物に投影されて屈折してあらわれるし、作者は色々な登場人物に分断されてでてくるので、一人ずつは細切れの感じ。
それだけど、随筆には作者がすぐにでてきて、その人柄がすけてみえるし、心理のあや、考え、知識などすっきりでてくる。
今や、本から新しい知識を得たいというよりも、生き方、こころの動きを眺めていたいと思うことが多くなった。新しい知識を得たい分野も、好きな分野だけになってきてしまった。

近代初期の小説は、筋が波乱万丈というよりも心理のあやを掘り下げていき、ぐちぐちしていたのが多く、どっちかというとそんなのが好みであった。自分の下を小さく掘っていき、どんなのが・・・と思いながら掘り続ける、そんんな好みからすると、今は随筆かも。

何十年も本を読み続けて、結局自分の周りに穴を掘っているだけになったのかもしれないけど、最近はそんな本の読み方が心地いい。

すばらしい随筆を読むと、あんな達意の文に憧れる。私もそんな文を書いてみたい。でも内包している世界が貧弱だわな。やはり憧れだけかも。

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生きたい!

顔だけは知っているというほどの人が、土産を携えて訪ねてらした。何事ならんて、我が家は店であるから、なんでもお客さまである。

胸、腹にたまったものを吐き出したくていらしたのかも。それにしても壮絶な人生であった。

その人は東京大空襲の昭和20年の3月10日、両親をなくしたとのこと。8歳で妹5歳と母方のおばあちゃんの家、茨城県に疎開していて難を逃れたとのこと。その後父方の実家に引きとられ、そこで妹とも叔父さんに育てられたとのことであったが、叔父さんとその人の父という方は母違い、いわゆる義理の叔父さんであったとか、一家の厄介者、両親といっしょに死にたかったとずっと思い続けていたとか。
ようやく一家を持ち、子供二人、頑張って家計を支えていたけど、連れ合いは43歳で脳梗塞、右半身不随、家計を支えながら、病人の世話、ままにならない現状に暴れるつれあい、それに反発して喧嘩ばかりやっている連れ合いと息子、気にしながらも働かなきゃ生活が維持できない。8年の間に脳梗塞を3度おこしなおし、連れ合い51歳で死亡。
二人の子供をなんとか高校だけは卒業させたい、ローンの残りも支払っていかなきゃならない。聞いているこちらが息苦しくなってくる人生である。
どうにか息子は高校卒業して就職、ようやく平安が・・・・
ところが、親の苦労をみていたから、親の気持ちも忖度できるような人に育ったか、ドラマでないのはそうはいかない、息子にしてみれば親に甘えたい時期に親は精神的に不在であったのだろう、自分を処すすべは知らなかったのか、息子ひきこもりとなる。なおのこと働かなきゃならない。
身体は悲鳴をあげていたのだろうけど、そんな悲鳴には耳もすましていられない。
毎日死んでしまったらどんなに楽だろうと思わない日は一日もなかったとのこと。ただただ、子供のために生きていただけ。
胸がしめつけられような痛み、夜中にめまいがおきて、徐々に歩けなくなって、倒れて病院に運び込まれる。よくぞ命があったと医者にあきれられて、即刻入院、人生どうなるのかと、ただただ死にたいと大泣き一ヶ月、そのうち体には蕁麻疹が、心臓が悪いという手術にこぎつけるまで、悲鳴をあげている体を手術ができるまでに二ヶ月かかったとのことであった。
そして、よくぞ生きていた、もういつ発作で命落としてもおかしくなかったと言われて、それこそ生まれて初めて、生きたい!と思ったのだという。

空襲で命を落とした両親の想いが、心筋梗塞で命落としそうになって初めて生きていたい、両親もそうだから自分が生き残ったのだと思ったという。自分をおいてなくなった親をいつも恨んで、なぜ自分もいっしょにつれてくれなかったのかと、後を追いたい、死にたい死にたい、と思っていたのに、命があることに感謝する気持ちに初めてなったと述懐するのである。

生きたいとなれば、やることにためらいはなかったとのこと。つまりは引きこもりの息子に、自分で生きよ、と自分が働いていた時にかけてきた保険金が満期になったのを利用して、我が家の近所に競売になった家があったのだけれど、息子には相談もせず、その家を買って一人暮らしを敢行したものである。潔いではないか。

息子は息子の時間で生きていけばいい、人のものに手をかけたわけでなし、もとの家は息子にやったのだから生きていきなさいねというわけである。男の人では到底できない決断ではないか。

今生きていることに喜びを毎日感じているという、そしてあと10年は生きたいものだという。孫の生い立ちを見届けたいと。

悲しくなるほどの女の人生。ドラマ以上かも。

なんで顔を知っている程度の私のところにいらしたのか。壮絶な話を聞きながら、私を選んできてくださったのねと思う。ただ話を聞くだけのことしかできないけど、頑張ってらしたのですね、の言葉しかない。

苦労しましたといえば、苦労のほうが笑いよる、というのは田辺聖子さんの随筆にあった言葉だけど、この場合苦労のほうは笑わないだろうけど、本人のほうが苦労を突き抜けて生きたいという境地になったのだから、苦労のほうが逃げていくだろうと思う。

語ることで気が楽になるようでしたら、いつでもどうぞ、のおしまいの言葉で幾分笑顔が出てその人は帰っていった。私の役はせいぜい話を聞いて共感してあげることだけである。役にたっているとは思わないけど、私自身を振り返る役にたてなきゃというところではある。

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常備薬

最近はおいしいなどと食べ過ぎればあとは地獄、胸焼けがになるので、肉類は敬遠していた。ところが昨日読んだ本、北原亜衣子「お茶を飲みながら」という随筆集に、野菜ばかりたべていると、脳からドーパミンがでてきて、最後のところ怒りやすくなる、とあるお相撲さんが語った言葉として出ていた。怒りやすい、きれやすい、もっとも嫌うところ。やはり肉はおいしく食べなきゃ、そんなわけで長い間冷凍室にほうりこんであった肉丼を、結果、胸焼けで大変。寝てられない。夜中ごそごそと消化剤を探すはめに。

我が家の住人はほとんど二人、息子は週に一度だけしか帰宅しない、幸いその二人はてんでに医者の薬は飲んでいるものの、まあ血圧とか糖尿とかです、それ以外はすこぶる元気。ごそごそ探しても消化剤がない。そんなのは家庭の常備薬だろうに。

常備薬といえば、一昨年なくなった舅は数え95歳まで存命だったのだけれど、その人の常備薬は消化剤、しかも漢方だった。それと目薬、世の中がかすんでいたに違いない。今その両方とも我が家にはない。小さい子供を抱えている娘の家は、まずは解熱剤、子供用風邪薬、座薬、湿布、整腸剤などはかかせない。

人の年のありようで、常備薬って随分ちがうのね、舅が食後消化剤をいつも飲んでいた。食べすぎじゃないのなんて思っていた、ごめんなさいである。年をとってくると体は鈍くなるなんて思っていたけど、そうではない。主人なんて防腐剤いりのパンなどを食べると、とたんに胸焼けである。昔は胸焼けは餅を食べすぎたなどの単純な理由で起こった。今は食品添加物が体に響くらしい。年をかさねていって、体は敏感になってきたのだと思う。

体に負担のかからない食材を探すのは勿論だが、常備薬も見直さなきゃというところである。我が家も年寄り仕様の常備薬にしなきゃというところかもしれない。

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七夕

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私の住んでいるところ年に一度の賑わいです。七夕が始りました。一枚目、二枚目、わが町内の七夕です。三枚目は我が家のちっこい七夕、四枚目、五枚目は隣の町内の七夕です。

町内の七夕はすごく大きいので、飾りは町内あげての手作りです。そんなわけで6月にはいってより、お寺に集合みんなでこつこつ作りました。何十年もやりつづけてきて、慣れてはいますが、なにせみんな年をとった、疲れて止めたい、でも止められないという状況です。ご近所の家族の動向を一年に一度まとめて聞く行事となっております。

4日、6日は夜店で頑張らなきゃという感じ。町の活気は昔通りの祭りを継承していけるかにかかっていると、主人はいつも申しております。たしかに祭りという伝統行事は人手もかかるし、またお金もかかります。それなのに今生活していることに直接影響してくるわけでもない。都合が悪いと一人、一人がぬけていけば、即座に伝統は途絶えてしまいます。

小さな町内は御多分にもれず、高齢化がすすみ、一人暮らしの年寄り世帯は多くなっています。無理にでも集まり、わいわいといいながら七夕飾りを作り、元気を確かめ合う行事になりました。竹を雨の中切りにいき、それをロープでまとめあげ、みんなで作った飾りをさげ、これで丸まるの一日がかかります。七夕が始れば、夜店。みんなへとへとになりながら、いつまでできるかなとつぶやきながら、でもなかなかの力作ができあがりました。雨がたいしたことなければいいなと思いつつ、さあ、今年も頑張ります。

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負うた子に教えられ

代わり映えのしない毎日、主人は孫命になっている。あれやこれやと用事を作っては電話をせっせと。猫なで声で電話。「おじいちゃん、めいちゃんのこと一番大好き、めいちゃんは」となにかと聞きたがっている。さしもの孫も煩がるかと思いきや、「ありがとう。めいちゃん、おじいちゃんのこと大好き。おとうさんも、おかあさんも、ほうちゃんも、おばあちゃんも、おじさんも、みんな大好き」上手な受け答えだわと感心していたのだが、さらに続きがあった。

「おじいちゃんのこと好きだけど、みんな大好き。おじいちゃんも、みんな大好きにならなきゃ駄目だよ」あんにめいちゃんだけを大好きと言っている、じいさんを嗜めた。一人だけを好きと言っているのは、違っているよ。みんなのこと好きにならなきゃ・・・というわけである。

おじいちゃん、びっくらこいている。そこで反省すればいいものを、わが孫はよほどできた子ではあるまいか、となにかにつけて私に報告するのである。孫自慢もここまでくりゃ、あほというしかない。

おじいちゃんから好きと言われての窮余の一策にすれば、なかなかの答えぶりではある。こんなことって、親のしつけでもなければ、普段からの勉強でもなく、子供ながらの咄嗟の反射神経みたいなものである。だから、こんな言い方は、本来のその子供の持っている正直な反射だろうと思う。

負うた子に教えられ・・・というのは、大人になるに従ってのさまざまな経験がむしろ負の方向に向き、ただの子供の反射みたいなことが、かえって曇りがない純粋な答えにみえるということかもしれない。

成長するというのは、外から見るとなかなか大きくなったなどとわかるけれども、本当はちっとも成長していないということがばればれになっていることもあるかもしれないと思う。

ただの反射神経みたいな答えはいくつぐらいまでしているものだろうか。孫の成長はなかなか面白い。

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かるみ

学生時代のゼミ仲間9人のうち、2人は大学の教授をしている。一人は初めから大学の教員、研究者としての道を歩んだ人。一人は高校の校長先生を定年退職、そのあと、こわれて大学の先生になったのであるが、今春、めでたく4年生大学の教授になったよし、まことに目出度い。

「随分偉くなったんだね~。頑張ったんだね~。」といえば、「なに、本当に大学にじっと辛抱して教授になった本当の教授に比べりゃ、年金も貰ってるわしみたいな者は、給料が安くつくんだから。半額ぐらいと違うか」とのんびり答える。学生時代から、ものをむずかしく捕らえるということはしない人で、飄々とした人であった。どんな仕事をと問えば、女子大とのことで、若い娘さんに囲まれているのもわるくないなんていいながら、長い間の教員生活、まことに腰が軽く、えらぶったところなどはまったくない。もっともかるすぎるきらいなきにしもあらずである。

大学教授といえば、恐れ入るけれど、なに給料が安くて人件費の関係でわしみたいなものが役にたっている、などと聞けば爆笑である。

人の名刺を見る時には、心の中で、「たかが・・・」をいれて見るがよかろうと言ったのは、佐藤愛子さんであった。たかが医者、たかが教授。これは本当は自分の名刺にたいして、たかが、をいれるべきから始ったのであるが、人に対しては、そしてその仕事の中味、業績にたいして、十分な敬意を払いつつ、でもそんな軽みを発揮する人は本当はとっても重いことが多い。

肩書きに恐れ入ることなく、また肩書きで自分の位置をひけらかすことのない、話が通じあう同級生は、いつまでたっても昔の同級生で、えらくもなんともない楽しい話が弾むひとである。

私が知っている、いわゆる教授といわれる人たち、肩書きとは関係なく、人間的な魅力にあふれている人が多い。本物の先生である。そうでない人もまま見ることも多い。

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それぞれの定年

主人の友達、若い時は無口、愛想のなさが原因か、なかなか仕事が落ち着かなかった。それが絶対似合わないと思った接客の仕事、ラーメン屋さんをやり成功、一等地に店を構え、駐車場も隣の店を買収、大きな場所を獲得、自宅も店のすぐ近所になかなかの家を構えている。あれは結婚した相手がまことに接客に向いた人であり、奥さんのおかげだと噂をしていたものである。

自営であるから定年はない。繁盛した店を何十年も切り盛りしていくのは、肉体的にもきつい、燃えつかないかと多少は心配していた。

その夫婦から、色々な絹の反物を持ち込まれ、全部男物は作務衣の上下に、女物は上下の簡単な二部式着物にしてほしいとのこと。大島の作務衣を着てなにすんの?聞いて驚いた。ラーメン屋をやりながら、フランス語の勉強をしていたとのこと、なんどもフランスに自分たちで旅行をして、フランスに友達もできた。父親も見送り、母親はまだ元気。ここらでフランスに長期滞在したいとのこと。作務衣、二部式着物は絹物であり、見知らぬ人との話題になりやすく、話が弾むとのこと。そして民族衣裳として、ドレスコードのやかましいレストランや、その他の店にも難なく入れるとのことである。軽いし、絹物の反物であるので、柄もきれいである。話題にしやすいとのことである。

こんな日を設計していたのか、夫婦でダンスをならっていらしたこともあった。旦那のほうは、柔道を長いことやっており、奥さんとペアを組むと、コーチからは奥さんを投げ飛ばすつもりですか?などというような組み方をしていたとのこと、そんな話を聞いてわれら夫婦は爆笑、その友だちから誘われて、いつかわが主人、ダンスを始めてみたいと思ったか、おそるおそる誘いがかかったが、誘われた私は爆笑、あえなくその話はついえた。

長い時間をかけての、第二の人生の準備、お見事である。

はやったラーメン屋、息子に譲ろうとしたけど、きっぱり断られ、児孫に美田を残さずの覚悟を決めたようである。といいながら、奥さんは子供にせっせとお金や物を送っているらしいが、気がつかないふりをしていると旦那は言っている。

サラリーマンは定年というもがあり、自分の第二の人生設計をたてざるをえないし、またその覚悟も早くからしなくちゃならない。自営業というのは、それは自分の裁量であり、というよりも景気の動向を受けやすく、人生設計はたてるあとからこわれて行く、もう成り行き次第になりやすい。

その中での設計の立て方は、なかなか見事である。一等地にある店は敷地がなかなか広く、これを売ってなどといっていたが、すぐ近くにきたパチンコ屋が思いのほかの安値をつけてきて、おおいに腹がたったよし。こうなりゃ絶対相手には売らない。店を閉めてしまおうと思ったけど、こうなりゃ意地でも営業を続けていく、なんてことになって、店は人に頼んでの長期滞在である。

こういう感じで、計画はたてても必ずしも実現できるわけではないが、長い時間をかけての人生の着地点を考えるのは、毎日の大変な状態を支える夢をお互いみることであり、それは実現せずとも、無駄にはならないだろう。夢をおいかける、若いときはそれに夢中になるだけだが、人生を重ねてきた大人の夢は柔軟で、しかも力強い実績に支えられている。ユニークな友達とのやり取りはなかなか面白い。

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しなやか

「木の葉、木の元」の留学生の一人が、男の子を出産したとのことで、祝いの相談を受ける。
しなやかな強さに驚くばかりである。彼女は中国東北部の大学の先生である。中国には親、旦那、そして長女、2歳半をおいての留学とのことであった。そして妊娠中の身でありながらの留学であった。
ほっそりした身で、なんと強い!と驚くばかり。色々な事情をかかえながらの、国費留学である。試験をうけて認められたとのこと、旦那、幼女を親に託しての留学、それだけでも驚くのに、妊娠の身。よその国での出産である。

報道によれば、お国では一人っ子政策と聞いていますが、それは解除されたのですか、などと、気になったことを聞いてみた。報道によれば、違反している家族にたいして、大層な罰金が課されるとか、あるいはきちんとした仕事につけないとかの制裁がすごいと聞いている。

その答えは、外国で生まれた子供は認められる、戸籍は与えられるというものであった。それも成文化されているものではなさそうである。聞いてるこちらがどきどきする。

出産という大事業を、その地にあわせて親、旦那も休みをとってきてくれるはず、上の子にも会えるので楽しみですとの答え、本当にしなやかで強いと感じる。

無事に男の子を出産なさったとのこと、大学はどうするのかな、子育てはどうするのかな、家族は今後どうするのかな、思うだにこっちが大変と武者ぶるいしてしまう。

知り合いの家に子供が生まれることになった。初めての子である。この出産をめぐって、とうの本人が勤めをやめるか、それとも親が孫を見るためにやめるかと話し合っている家族がいる。就業規則は形は立派なれど、まわりへの迷惑、気兼ねから、どうしたものかと揉めている。

かの中国からの留学生の爪の垢でも煎じて飲まなきゃというところである。彼女も立派だが、それを支える旦那、それと子育てに尽力している親の支えもたいしたものだと思う。

今の日本ほどには、社会保障も自由もいささかではあるが欠けていそうな社会ではあるが、かえってたくましさを備えていると思う。しなやかで強い彼女をみていると、見た目はほんわかとどうにかできると思いますとのいいかたに、大変な努力が必要だろうけど、それをむしろ楽しんでいるような若い人って本当にまぶしいと感じる。親子とも健やかでいてほしい。

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木の葉木の元

知り合いのかたが遠い縁戚から、動産、不動産を相続した。その家に中国からの留学生が下宿している。縁あって家をかりてもらっているので、その下宿生に日本に来た記念として浴衣一式をプレゼントしたいので、相談にのってほしいとの話。

その人はほんの小さい時に旧満州から引き上げてきた。両親は終戦のどさくさで亡くなり、子供だけで命からがら引き上げてきたとのことであった。親戚に引き取られ、兄弟はそこで育ったのだが、苦労はさまざまであったろうが、その苦労の影もみえないほどに良い人である。勤め先の社長が人柄を見込んで、是非娘といっしょになってくれといわれ、おだやかな家庭を築いている。

遠い縁戚ではあっても、自分が必ず見なきゃならない立場ではなかった子供のいない年寄りの面倒をなにくれとなく見ていたら、その年寄りが亡くなったときに遺産をその人に残すとの遺言書があったとのことで、年寄りの家を相続したものである。思いかけずということで、そのばあさんの法事なども行っている。

自分の生活が落ち着いてみると、自分が生まれたところ、かっての満州での両親との思い出があると思われる地にどうしても訪ねてみたいと思ったよし。じっくりと自分のルーツの地をしみじみ訪ねたい、そして両親を弔いたいとの思いが年々強くなってきたようである。そして始めたのが中国語の勉強である。大学にそんな講座があることを知り、通い始めたものである。まだまだ中国に訪ねても、話は通じないからと熱心に勉強を続けている。そして、その大学で大連から留学してきた人の下宿をひきうけたとのことである。二人下宿しているが、二人とも国費留学生であり、そのうちの一人は大学の先生をしているとのことであった。

長い月日がたって、自分のルーツの地を訪ねたい。自分はどんな地で生まれ、両親とどんな生活を送っていたものか、どうしても我が身をふりかえりたいという思いは強いようである。

残留孤児のかたがどうあっても自分のルーツを探したい、何十年も生活をしてきたその生活を犠牲にしても、どうあっても帰りたいという思いは、どうにもわからない。現在の生活が・・・と思っていたけど、思い出がまるで記憶にない人もどうあってもその地にたちたいというその思いは、そんな立場にたったことのない私には実感はなく、そんなものなのかな~と思うだけである。

姑が「木の葉、木の元」ということをよく言っていた。それは家を出たものでも、なにかがあれば、木の元に帰る。つまりは実家ということを意識するものだということだと思っていたが、もっと大きく、木の葉、木の元なのかもと思う。

落ち着いてみれば、あるいは年をとって自分を振り返る年になったからか、しみじみ自分を振り返りたい。そんな思いが中国からの留学生の下宿をひきよせたような感じである。

浴衣一式を帯、履物、腰紐などもセットして届けにいき、そして浴衣の着方も伝授してきたが、留学生は親切な大家さんでびっくりしながらも喜んでいた。

ルーツに対する乾くような気持ち、そんなに激しいものかと驚いている。そんな気持ちよくはわからないが、応援したいとも思う。

木の葉、木の元、人間もおおいなる自然の一部で、DNAにすりこまれている感覚なのかもしれないと思う。

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父の遺言

通っているスポーツジムからのお知らせ、会員になって10年になるので、会費割引を、10%引きになるとのことである。もう10年か、感慨深い。

水泳に通い始めたのは、まず父の看取りで腰をいためたこと、足先まで痺れが走り、鍛えておかないと親も看取れない。運動は好きではなく、水着姿になるなんて恥以外の何者でもない、なんて思っていたけど、必要に迫られての決心であった。申し込んではみたものの、一回も行かないさきに、父は永眠した。運動不足を父からたしなめられた気がして、そして父の遺言であると思い決め、通い続けている。父が亡くなってもう10年になるんだと感慨深い。大体1KMぐらいは泳いでくる。プールで歩くだけでも、疲れていたのに、結構な体力もついたものである。腰は少しも痛くはなく、頑固な肩こりも解消した、父に自慢して、通い続けていると報告したい。

私はこんなささやかな運動が功を奏したのか、今のところ、健康は問題ない。父の遺言のおかげだと思っている。

今弟は入院している。ことしめでたく定年を迎え、少しは自分を省みることができると喜んでいた矢先である。団塊の世代である。会社はリストラ、合併をやり、サラリーマン生活を終えるのも大変なものと思っていた。ようやくゴール間近、用意ならざる病気である。可哀相でたまらない。父の遺言なんて、私は自営業で時間も自分の裁量でとりやすかった。弟はリストラの波をどうにかよけてで目一杯であったろう、「父の遺言だよ、少しは運動して休憩もいれなきゃ」「ほんとにそうだね。できるようになればね」そんな願いは果たされるのだろうか。

父は戦争の生き残りをありがたいと考え、がむしゃらに働く姿をみせていただけで、遺言とか、教訓めいたものは何も聞いてはいない。戦後を駆け抜けてきた生き方は、言葉にならずともそれなりに教えられたことは大きい。また言葉に何かを残していったとしても、時代の荒波の中で、それなりに生きていくには自分を犠牲にして、がむしゃらに生きるしかなかったのだ。それは父もそうであったし、弟もそうであろう。

今理不尽な運命に翻弄されつつ、現代の医学の進歩に期待したいし、さらにの本人の頑張りも期待したい。そしてまわりでどうにか支える役割を担いたいと思っている。

父の遺言と思い決めたささやかなスポーツジム通い、これが実行できたのは、本当に幸運なことであったのだと改めて思う。いつまで続けられるかわからないけど、頑張って通い続けたい。

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小旅行

Dscf0051_1 主人が友達と行こうと温泉旅館に申し込んだところ、満員と断られた由、前々日になってキャンセルが出たとの案内が。友は予定をすでにいれたとのことで、急に誘いがあって、温泉に。

Dscf0052 Dscf0053         粟津温泉に~。近くの那谷寺に参詣、

石山の石より白し 秋の風

の芭蕉の句碑はあまりにも有名。広大な敷地は緑におおわれ、緑陰も気持ちいい。肺の中までみずみずしい酸素が一杯満たされた感じである。

Dscf0054 さらにゆの国の森に。加賀の工芸品を作っている実演販売、さらに体験できるようになっている。このゆの国の森はできてもう20年になるとのことであった。バブル華やかなりし頃、ある温泉旅館が単独で作ったものである。広大な敷地の中に、色々な施設が点在し、加賀工芸を色々みることもできるし、体験もできるし、加賀の温泉郷からは近いということもあって、この施設は多いに成功したとのことであった。

今回行ってきた温泉旅館は、うまくいかず九州の別府温泉の旅館主に譲渡され、今年の三月にリニューアルオープンしたもの。オープン記念ということもあろうが、信じられない格安旅館である。どんなサービスがあるか見たいとのことで、行くことになったらしい。他からの資本で、格安旅館にうまれかわるところもあり、また締められて荒れるにまかせているところも多い、従来どおり営業しているところもあるが、まわりで格安にされれば、値段は引きずられるだろうし、青息吐息ではなかろうかと思う。

那谷寺、ゆのくにの森へは、バブル華やかなりし頃ほとんど接待旅行にいったところ、接待されることもあったし、接待したこともあった。大型バスをつらねての大名旅行であった。接待された旅行は数知れずという感じ。あのときのあれこれ、今では罰当たりだったね~とあの時代の温泉旅行を思いだす。あの大型バスを連ねての旅行に対応していた旅館は、旅の形がかわってきたことにすぐには対応できず、重戦車のような設備を使えなくなったものである。

格安旅館に色々求めるのは間違いだが、家からはなれた開放感と温泉につかってリラックス、お互い熟睡して、真夜中地震があったことにも気がついていなかったのはおまぬけであった。それだけでよしとしよう。

大名旅行にもかかわらず、あれやこれやの文句をつけていたり、たいして有難がってもいなかったな。考えてみるとバブルの恩恵を一杯うけてきていたな、若い人たちはバブルってなんのことかわからないという。実感はないからである。

舞妓さん、妻を返した人、あげくにバニーガールのはべったパーテーまで経験したな、立派なホテルにもとめてもらった。あげくに私には退職金などはないけど、我らの世代は退職金も手にしたし、バブルでひどいこともあったけど、どちらかというと恩恵を受けたかもしれない。まあ普通人であるから、その程度の恩恵ではあったが、いい目にあったのは事実。

「温泉旅館にだんだん値下がりして、こんな値段のところしか来れないのも悲しい、絶対高いところにリベンジするぞ」と私が言えば、主人、「値段の高いところといってもそんなにたいしたことはなかったろうが、あれで十分」と言う。

そんなに昔のことではないが、すごく時代がかわってしまっていると、昔いっていたところにたつと、感慨深い、ウタタ荒涼と言う感じかな。

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にもなれない。

我が家では一年に食べる米を知り合いの農家のかたに頼んでいる。大きな冷温倉庫に保管してもらって、そのつど白米に機械でひいてもらうのである。そのほうがおいしいからではあるが、この米の袋の大きさは半俵、30KGである。重いから主人の仕事であるが、30KGの袋を倉庫から出し、もみすりの機械の中にいれる、さらにそれを車につけ、台所まで持ってきてということがだんだんつらくなってきたらしい。もう止めたいと思うのだけど、何十年も頼んでいることなので、なかなか言い出せない。ふうふうである。

最近のニュース、どこぞの温泉旅館から黄金風呂が八階から盗まれたとのこと。非