月見の思い出
十五夜の月が煌々と輝いている。屋根の瓦も白く光っている。お茶では月見茶会がさまざまに開かれているだろう。月見の設定は比較的やりやすいし、情緒たっぷりでお茶を演出しやすい。
月見の茶会と言えば忘れられない茶会がある。
娘が高校一年生の夏休みも終わろうという日に一緒に風呂にはいったら、体に細かく点状のぶつぶつが、痛くも痒くもないという。すぐに医者に連れて行ったら、皮膚科のお医者さんであったけど、私のところではむつかしい、すぐに総合病院にと。そのままの入院であった。わけがわからないまま、それから160日あまりの入院生活になったのでした。
其の前に友より、月見の茶会に招かれて、其のときはそんな事態など予想もできていなかったから伺いますとの返事。茶事といえば、返事をすれば必ず伺うのが筋、断れば相手に気を使わせるし、当日招かれた人にも迷惑かかると、気のすすまぬことであったが友の家にいったもの。
蝋燭の光の中で亭主はせいいっぱいのもてなしをして下さったのだけれど、娘を思えば涙がにじんで、でも心の動揺を押し隠すのに目一杯。どんな茶事であったか記憶もない。
帰り道、月は煌々と輝き、やさしい光を投げかけていた。でも車運転しながら事故を起さぬようにと気持ちは張り詰めていたけど、涙があふれてしかたがなかった。あの月の光は今でも思い出せる。
そんな月見を過ごしたのだけれど、その後何年も月見のお茶だけはしたいと思ったことがなかった。10年以上たって、元気になって無事大学生活もおくれ、社会人にもなり、結婚もし子供も授かった。
月をみるとつらい思い出がよみがえた月日もおだやかに過ぎ、こうなってみると月に感謝さえしたい気持ちになり、月見の茶会を実施したものである。十三夜に十三夜を詠んだ俳句
まゆなべのほのかに温し十三夜 前田普羅
をかけてそんな時間にあわせて月見の茶事を実施したこともある。
其のときに来てくれた友は絹の機やさん、自分に合わせてくれたかと喜んでくれたもの。
月というのは、本当に毎日、毎月、さまざまに形を替えて現れるもので、それそのものはただ月である。それを見る者の心の投影で、温かいと感じたり、冷たいと感じたり、それは当たり前のことだけれど、何かがあるとそんなことを実感するわけである。
「十三夜」というのは樋口一葉の作品なのだけれど、とても好きな作品である。美しく生まれたばかりに望まれて金持ちの家に嫁いだ女性が、婚家で其のうちに冷たい扱いを受け、思い余って実家に戻ってみれば、年置いた親が婚家から金銭的な援助を受け、辛抱してくれと泣きつかれ、泣く泣く婚家に戻ろうとするのだけれど、その人力車を引く車夫が、かって一緒になろうと約束した人で、翻意して女が嫁いだあと、身を持ち崩して車夫になっていたのに偶然乗り合わせたもの、空には十三夜の月が・・・
という話であった。
ままにならぬは世の常、そしてしみじみとした心の二人をあわく照らすのは月、ままならないままの人生を肯定するわけではないけど、等しく月の光だけはかわらず指している。
文学作品で月はさまざま歌われている。ありきたりと思うこともあったけど、やはり自分が月に慰められたり、月を特別にと思う経験をすると、月見の茶事はやはり力がはいります。
思うにただ単に趣味的な月見、高踏的な趣味の茶事と思っても、そこにいらっしゃる方の心まではわからない。
心傾けて、真剣に月見の茶事を実施したいと思う。
本当に月が美しく輝いている、そして虫のすだく声が響く。
今年は月見の茶事を実施する予定はないけど、あれから23年である。
15年くらい月見をまともにできなかった。今はしみじみと美しいと思うし、わけもなく感謝したい気持ちである>
娘の恙無い健康を祈りたい。
















































































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